13-7 仮面の崩壊
第十三幕 緋の揺籃
七章 仮面の崩壊
風は止まっていた。
翡翠の繭の縁で、ミィが小さく身を丸める。レイブンは翼をわずかに広げ、ブラッドリィは半歩前に出て、私とスノウの間を測る。背では兄上の呼吸が、静かに輪の拍へ重なっていた。
街は目覚めの音を続けている。鍋の蓋の微かな震え、誰かの笑い声、遠い鐘。
けれど、この場所だけは、薄い硝子で覆われたように静かだ。
スノウは、笑っていた。
祈る者のかたちをした、きれいな笑み。
昔から変わらない。
だが、その笑みの縁に、ごく細いひびが走っているのが見えた。
私は一歩踏み出し、足を止める。
輪は澄んでいる。
胸の火も揺れない。
私は彼を正面から見た。
彼の羽根は白金だった。
冬の光のように清く、触れれば冷たそうで、しかし重さを感じさせない。
その羽根の一本の中央に、墨を落としたような点があった。最初は本当に点だった。だが、次の呼吸でそれは細い筋になり、さらに太い筋になって、ゆっくりと広がっていく。
私は言葉を探した。
彼の耳に届き得る形を。
けれど、見つけた言葉はどれも、ひだまりの縁でほどけて消えた。
「スノウ」
名を呼ぶと、彼は眉をやさしく下げた。
「ここにいるよ」
声は柔らかい。だが、柔らかさの下で、何かが小さく軋む。羽根の黒は、滲みのように広がり、白金の光を侵していく。彼の頬の色は変わらない。けれど、瞳の底に、寒いものが立ち上がった。
「どうして……どうして皆に分け与える……?」
彼は問いを繰り返した。
「その光は、僕だけのものなのに、君は……!」
私は息を整え、首を横に振る。
「光は、分けて減るものじゃない。誰かのために閉じれば、弱くなる。開けば、強くなる」
言いながら、私は彼の顔色を見た。
届いてほしいと願った。
スノウの笑みは、形を保ったまま揺れた。
仮面――そう呼ぶしかない薄い膜が、音もなく割れていく。ひとひら、またひとひらと、聖者の面の欠片が羽根の根元へ落ち、白い粉になって消えた。
彼の襟元の影が濃くなる。胸の上下が、浅く早い。
「僕はね」
彼は言った。
「君を、同じ高さの孤独へ連れていけば、もう二度と離れないと思った。だから世界を眠らせた。君が僕だけを見るように。静けさの真ん中で、君と僕だけが息をする世界を」
私は黙って聞いた。
彼の独り言は、告白に似ていた。けれど、告白は約束ではない。刃の鞘にもなるし、鞘の中身にもなる。
「けれど、君は違う選び方をした」
スノウは目を閉じ、短く息を吸った。
「君は皆に光を分け、闇を誇りだと言った。君の背に重なっている呼吸は、僕のものじゃない。僕は……」
彼の声が細くなり、次の瞬間、ぱきん、と薄氷の割れる音がした。
羽根の先が黒く染まった。
その黒は、ただの色ではない。刃だ。
羽根の縁が細かく裂け、そこから血のように濃い赤がにじむ。赤はすぐに乾き、薄い刃へと固まった。一本、二本、三本――数える間にも増えていく。
レイブンが低く鳴き、ミィが毛を逆立てた。ブラッドリィは腰を沈め、足を開く。私は掌に輪の拍を合わせ、ひと呼吸、深く吸う。
「奪えぬなら、壊すしかない…」
スノウの声は、祈りから外れた。
優しい形をしていた笑みが消える。瞳の底で、長い孤独が炎に変わる。
「君は、僕のためだけに笑えばいい」
囁きの高さで発された言葉が、最後には、地を割る叫びに変わる。
「君は僕のためだけに笑え!!」
彼は翼を広げた。
刃が連なる羽ばたきが、空気を裂いて押し寄せる。
世界がわずかに遅れて追いつく。
石畳の砂が跳ね、旗が裂け、近くの壁に細い傷が走った。
私は一歩も引かない。
輪を私の前に持ち上げ、緋と闇を重ねる。
刃が当たる。
澄んだ音が鳴り、火花の代わりに小さな緋の粒が散った。
輪は割れない。けれど、重い。
彼の孤独は、刃にしてなお重かった。
「スカリー」
背から兄上の声が落ちる。
短い呼びかけだけで、私はわずかに息を深くできる。
輪の拍が整う。
スノウの第二撃。羽ばたきが上から斜めに降り、刃の雨が迸る。私は身をひねり、片腕で輪を押し上げ、もう片方の掌で輪の縁を締める。
緋と闇が擦れ合い、低い唸りを上げた。
刃は弾かれ、石に刺さっては砕け、砕けては煙のように消える。
レイブンが飛び、砕片がジェイドに向かわないよう風を作る。ミィが彼女の肩に爪を立て、体を小さくしてかばう。ブラッドリィは私の斜め前に入り、飛び石のように跳ねる破片を斬り落とした。
「どうしてだよ」
スノウが低く言う。
「どうして僕じゃない?」
言葉は刃より痛い。
「僕は君を見てきた。君がひとりの夜も、膝を抱えた朝も、ずっとそばで見ていた。君が笑えば救われると思った。だから、君に笑ってほしい。僕のために。僕だけのために」
私は首を振る。
「私は、お前のためだけには笑わない」
声は低く、まっすぐだ。
「私は、お前だけを見てきたわけじゃない。私は、皆を見ている。私を見ている人たちを、私も見返す。お前が望む『同じ孤独』へは戻らない。私の闇は、もう揺籃だ」
スノウの喉が震え、唇の色が白くなる。
仮面は、完全に剥がれた。祈りの面が足元で粉になり、彼の素顔だけが残る。
美しい顔だ。
だが、その美しさの中に、深い飢えがむき出しになっていた。
「それなら」
彼は囁き、次の瞬間、翼をさらに広げた。
黒銀の刃が、今度は一直線に私の胸を狙う。
私は輪を斜めに構え、足を半歩送り、衝撃の逃げ道を作る。
刃が輪を擦り、火が散る。
腕が痺れる。
けれど、折れない。
私は、折れない。
帝都の音が遠くなった。
私とスノウの間にあるのは、呼吸と鼓動だけ。
そのわずかな間に、私は彼の瞳を見た。
そこにいたのは、天使ではなかった。
誰かに愛してほしかった少年が、永い時間を経て、祈りの言葉を刃に変えた姿だった。
「戻れ、スノウ」
私は言う。
「お前が望んだ場所には、私も、お前も、もう戻れない」
言葉は届かないかもしれない。
それでも言う。
私のためにも、彼のためにも。
「黙れ」
スノウの声が低く裂け、翼の影が地面を覆う。
黒い刃が重なる。
私は輪をさらに前へ。
背から兄上の呼吸が深く重なる。
私の胸の火は、強くなった。
スノウの羽根の根元から、血のような赤が溢れた。
それは涙にも見えた。けれど、彼は泣かない。泣けない。
彼は叫ぶ。
「君は僕のためだけに笑えよ!!!」
刃が振り下ろされる。
光が裂け、空気が悲鳴を上げる。
私は足を開き、輪を掲げ、受ける。
緋と闇が交わり、衝撃が石畳を走った。
決着ではない。
だが、始まりだった。
決戦は――もう、避けられない。




