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髑髏王と枇杷の姫  作者: べにいろたまご
第十三幕 緋の揺籃
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13-6 影に潜むもの

第十三幕 あけの揺籃

六章 影に潜むもの




 僕は、ずっと外から見ていた。

 帝都の外れ、遠い石橋の欄干に立ち、風の上に身を置いて。

 夜の名残を抱いた街の上に、緋と闇の輪が静かに広がっていくのを。


 輪は炎みたいに荒くはなかった。

 水のように、息のように、同じ速さで街へ満ちていった。

 屋根の上に、石畳に、眠る人の胸に。

 触れたところから、硬いものがほどけていく。

 死の雪の結晶が、音もなく光へ変わり、細い雫になって消える。

 泣き声があちこちで上がり、次には笑いが混ざる。

 僕の雪が作った沈黙に、君の光が言葉を戻していく。


 その中心に、君がいた。

 ――スカーレット。

 彼の掌に宿る輪が澄んで、帝都にひだまりを撒いていく。

 君は自分の闇を、誰かのために使っていた。

 僕が千年かけて確かめたやり方じゃない。

 僕がずっと祈ってきた「救い」とは違うやり方で。


 どうして、と僕は思った。


 どうして皆に分けるの。

 その光は、僕だけのものなのに。

 君が最初に笑って見せるべき相手は、僕だ。

 僕を見て、僕に手を伸ばして、僕だけを選べばそれでよかった。

 そうだろう?


 街で起きていることは、祝福の光景だった。

 わかっている。

 でも、胸は痛んだ。

 痛みは鋭くはない。じわじわ広がる、冷たい痛みだ。


 君が遠のく感覚に、体の奥から力が抜ける。

 僕は欄干に指をかけ、白い息を一度だけ吐いた。

 吐いた息が雪の粉になって、風に紛れた。


 翡翠の繭がほどけ、彼女が目を開いた瞬間も見た。

 枇杷の姫――ジェイド。

 君の掌が彼女の手を包み、「おかえり」と言ったとき、

 その言葉は真っ直ぐだった。

 まるで、そこが君の世界の中心だと言うみたいに。


 胸が、さらに冷たくなる。

 僕は、笑ってみせた。

 いつもの、優しい笑みの形で。

 笑って、やり過ごすことは得意だ。

 祈りの面をつけるのは、もう癖になっている。


 けれど、君の背にもうひとつの呼吸が重なったとき、

 僕の中の何かが小さく軋んだ。


 セルリアン。

 死の雪の中で眠らせたはずの王子。

 魂が摩耗もせず、君の背で静かに呼吸している。

 ――どうして、まだそこにいる。

 そこは僕の場所だ。

 君の背のすぐうしろ。

 君の呼吸と重なる場所。

 君の影と僕の影がひとつになる場所。

 そのすべては、僕のためのものだったはずだ。


 街が目覚めていくあいだ、僕は降りなかった。

 高い場所から、ずっと見ていた。

 輪が世界へ行き渡るのを。

 笑いが増え、泣き声が喜びに変わるのを。

 僕の雪がほどけ、君の光に吸い込まれていくのを。

 ――まるで、僕の祈りが嘘だったみたいに。


 僕は、君に似せて祈ることを覚えた。

 君がひとりで立ち続ける時間を、少しでも短くするために。

 君を孤独の同じ高さに連れてくれば、僕らはやっと同じ景色を見られると思った。

 孤独は痛む。

 痛むけれど、共通の傷は絆になる。

 それが僕の答えだった。

 だから雪を降らせた。

 世界を眠らせ、君をここに立たせた。

 君が僕だけを見てしまうほどの、静かな世界を作りたかった。


 でも、君は違う選び方をした。


 眠っていた人々に光を分け、街に声を戻した。

 自分の闇を誇りだと口にした。

 「私の闇は、揺籃だ」と。

 それを誇って、胸を張って、笑った。


 僕の中で、凍っていた何かがきしむ音がした。


 ――君を奪えなければ、僕は幸福を知らないまま。

 ふっと、古い言葉が喉の奥に浮かぶ。

 それは呪いじゃない。願いだ。

 でも、たぶん、世界から見れば呪いだ。

 わかっている。

 わかっているのに、止められない。

 止め方を誰も教えてくれなかった。

 僕にとっての「救い」はいつだって、君だったから。


 風の向きが変わる。

 君が顔を上げる。

 仲間たちが動く。

 黒い鳥が翼を鳴らし、黒猫が耳を立て、無言の騎士が一歩前に出る。


 翡翠の姫が君の袖をそっとつまむ。

 君は、彼女の手から静かに指を離し、前に出た。

 輪は澄んでいる。

 胸の火は強い。

 君は、ここで話をすると言った。

 僕は、地上に降りた。


 足が石に触れたとき、街はほんの少しだけ息を止める。


 僕は笑う。

 面は、まだ割れていない。

 礼を欠かさない天使の笑み。

 祈りの形。

 見慣れた仮面。


 けれど内側では、唇の裏を噛んでいた。

 血の味が広がる。

 喉が、勝手に震える。

 声を整えようとしても、整わない。

 胸の奥の焦げるにおいが上がってくる。


 どうして――。

 目の前の君は、誰かのために立っている。

 皆のために光を分け、皆のために闇を使い、皆のために強くなった。


 僕のためではない。

 僕だけのためでは、ない。


 「どうして……」

 声は思ったよりも弱かった。

 僕は一度、息を吸い直す。

 それでも震えは止まらない。

 君の名を呼ぶかわりに、言葉が零れた。


 「どうして……どうして皆に分け与える……? その光は、僕だけのものなのに、君は……!」


 言い終えた瞬間、世界の輪郭が強くなる。

 君の目が、まっすぐ僕を見る。

 その視線には、哀れみも怒りもなかった。

 ただ、決めた人間の目をしていた。


 僕は、脚の力がほんの少し抜けるのを感じた。

 笑みを形のまま保つのに、少しだけ遅れた。


 遠くで、雪に似た白いものが一枚、遅れて落ちる。

 掌を開けば、そこに乗るだろう。

 けれど僕は開かない。

 開いたら、何かが終わる気がした。


 追い風は吹かない。

 静かな向かい風だけが、頬に当たる。

 僕は唇をもう一度、内側で噛む。

 痛みは、はっきりしていた。

 痛みだけが確かだった。

 仮面はまだ割れない。

 けれど、縁に細い亀裂が走った音が、自分には聞こえた。


 君の背に、もうひとつの呼吸――セルリアンの呼吸が重なる。

 その重なりを見た僕の胸で、何かがさらに冷える。

 怒りではない。

 嫉妬だけでもない。

 名前を付けると壊れてしまいそうな、細長い感情。

 それを抱えたまま、僕は君を見上げた。

 君は、剣にまだ触れない。

 僕も、まだ翼を広げない。

 でも、ここから先は戻れないことを、ふたりとも知っていた。


 「……君は」

 言いかけて、言葉が途切れる。

 祈りの形が、喉の奥で崩れかける。

 僕は顔を上げ直し、いつもの笑みの角度を作り直した。

 まだ、壊してはいない。

 まだ、壊させない。

 僕は、最後の一歩を、仮面のまま踏み出した。


 次の拍で、羽の内側に、黒がひとかけら、滲む。

 僕はそれに気づかないふりをした。


 君の返事を聞くまでは。

 君の光を、僕だけに向けてもらうまでは。


 ――そう思うこと自体が、もう刃だと知りながら。


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