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髑髏王と枇杷の姫  作者: べにいろたまご
第十三幕 緋の揺籃
135/166

13-5 枇杷の姫の目覚め

第十三幕 あけの揺籃

五章 枇杷の姫の目覚め




 継命の環は静かに回り続け、帝都の息は落ち着いてきた。

 笑い声と泣き声が混ざり、家々の中に火が入り、人の出入りが戻る。


 私は掌を下ろし、胸の鼓動を聴いた。

 背では、兄上の呼吸が輪の拍に重なっている。

 大きくも小さくもない、確かな呼吸だ。

 それに背骨を支えられながら、私は視線をひとつの場所へ向ける。


 翡翠の繭だ。


 さっきまで深い眠りの色で光っていた表面が、いまは朝の霧みたいにやわらいでいる。

 継命の環の光と、黎明の繭の光が、争わずに混ざりあい、それぞれの色を保ったまま世界に溶けていく。

 強く押すのではなく、静かに染みていく。

 光の境目が薄くなり、息を合わせるみたいに明滅した。


 ミィが一歩、繭へ寄った。

 丸い背中がふるりと震え、耳がぴんと立つ。


 「……ミィ?」


 私が名を呼ぶより早く、ミィは小さく短く鳴いた。

 屋根の縁ではレイブンが身を乗り出す。翼の先がほんの少し広がった。

 アーチの影にいたブラッドリィは、剣から手を離し、ゆっくりこちらへ歩み出る。足取りは急がないが、迷いがない。


 繭の表面に、細いひびのような筋が走った。

 それは壊れる音ではなかった。

 硬い殻がほどける、やさしい音だ。

 筋は一本ずつ増え、やがて真ん中で出会い、静かに開いていく。

 中からあふれたのは、冷たさではなく、ぬくもりのある光だった。


 私は息を止めた。

 そこに、彼女がいた。


 長い眠りの中で守られていた呼吸が、浅く、そして少し深くなる。

 まつ毛が震え、閉じた瞼の下で視線が動く。

 頬に赤みが戻り、指先がほんのわずか丸くなった。


 「……ジェイド」


 名前を呼ぶと、彼女の瞳がゆっくり開いた。

 翡翠の色が、光を受けて澄む。

 最初は焦点が合わず、次に、私を見つけた。


 目尻に涙が浮かび、それがすぐに溢れた。

 安堵の涙。


 彼女は唇を開いた。

 声にはならなかったが、形ははっきりしていた。

 ――「ただいま」。


 ミィが飛び込んだ。

 小さな体が彼女の胸に埋まり、喉が鳴る。

 ジェイドは両手でミィを包むように抱き、目を細めた。


 「……あったかい」

 かすれた声がこぼれ、ミィがもう一度鳴いた。


 「おい、勝手に先を越すなよ」

 レイブンが屋根からひと跳びで降り、繭の縁に止まる。

 黒い瞳でジェイドを見つめ、いつもの軽口を探すように嘴を開いたが、言葉が出ない。

 代わりに、レイブンは短く羽を震わせた。

 「……よく戻った」

 それだけ言って、彼は顔を背けた。耳の良いミィだけが、彼の喉の奥の震えに気づいて、ひげを揺らした。


 ブラッドリィが一歩近づき、かがんだ。

 繭の縁を傷つけないよう、手の置き場を確かめてから、静かに頭を下げる。

 「姫。よく、ご無事で」

 言葉は短いのに、長い時間の重みがあった。

 ジェイドは笑って頷く。

 「あなたも、無事でいてくれて、よかった」

 ブラッドリィは一度だけ目を閉じ、胸に拳を当てる。

 その仕草に、私の胸の奥の力が少し緩んだ。


 私は繭に手を添えた。

 指先に、彼女の体温が伝わる。

 私は長く息を吐き、肩の力を抜いた。


 「ああ……よかった」

 声にした途端、目の奥が熱くなった。踏ん張っていた膝の震えを、やっと自分で認める。

 ジェイドは私の手を探し、指を重ねた。

 「生きてる」

 かすれた声で、はっきりと言う。

 私は頷いた。

 「生きている。おかえり、ジェイド」


 繭はもう殻ではない。

 光の薄布みたいにやわらかくなり、彼女の動きに合わせて形を変える。

 ミィが胸から肩へ移ると、繭の布もその位置で揺れ、レイブンが近づけば、影を受けて色を変える。

 街の音は遠くで賑やかだが、ここだけは静かな庭のように穏やかだった。

 私は耳を澄まし、輪の拍が落ち着きを保っているのを確かめる。

 兄上は、背で呼吸を合わせ続けてくれている。何も言わず、ただ支えてくれていることが、これほど心強いとは思わなかった。


 ジェイドはゆっくり体を起こし、周囲を見回した。

 崩れた街灯、起き上がった旗、花を咲かせはじめた石畳。

 「……戻ってきたのね」

 彼女がつぶやく。

 「もう、大丈夫だ」

 私は言う。言い切れるのは、輪の拍と、人々の声がそれを支えてくれているからだ。

 ジェイドはうなずき、私の肩に額を寄せた。

 「ありがとう」

 その重みは軽いのに、胸の奥まで届いた。


 その時、ミィが視線をあげ、遠くを見た。

 耳がまたぴんと立つ。

 ひげがかすかに震えた。

 「……?」

 私は顔を上げる。

 レイブンも同じ方向へ首を向け、羽の先をすこし広げた。

 ブラッドリィは自然に一歩前へ出る。足の置き方が変わる。守りの姿勢だ。

 輪の拍は乱れない。けれど、風の向きがわずかに変わった。


 空から、白いものがひとひら落ちてきた。

 雪に似ている。

 だが冷たくはない。

 それは私の掌の上で光り、すぐに溶けた。

 溶けたあとには、微かな白い香りだけが残る。

 懐かしいのに、胸が冷える香りだ。


 私は立ち上がり、ジェイドの手をそっと離した。

 彼女は理解したように頷き、ミィを抱き寄せる。

 レイブンが低く鳴き、ブラッドリィは半歩だけ私より前へ出て立つ。

 私は首を上げ、空を見る。

 高い場所に、小さな光の点があった。

 それは形を持ち、羽を持ち、静かに降りてくる。


 白金の羽。

 雪のように清い衣。

 足音はない。

 ただ、降り立つ前に、世界が一瞬だけ息を止めた。


 彼は、私の目の前に降りた。


 「スノウ」


 私は名を呼ぶ。

 彼は笑った。昔と変わらない、優しい笑みの形だけで。

 だが、その優しさは、どこにも届いていなかった。

 翡翠の繭の光が、彼の輪郭に触れて揺れる。

 風が止まり、音が薄くなる。

 街の遠い笑い声だけが、氷の下から聞こえるみたいに頼りない。


 ジェイドの指が、私の袖をそっとつまんだ。

 ミィの喉の鳴りが止まる。

 レイブンは翼をわずかに広げ、ブラッドリィは視線を落として息を整えた。

 私は前に一歩進み、足を止める。

 輪は澄んでいる。

 胸の火も消えていない。

 ここから先は――もう、迷わない。


 スノウが、薄く息を吸った。

 その呼吸だけで、空気の温度が少しだけ下がる。

 私は目を逸らさず、彼を見た。


 降り立った彼の影が、石畳の上で細く伸びる。

 その先に、私の影が重なっていた。

 世界は静かだった。

 けれど、静けさの中に、確かなきしみがあった。

 次の拍で、そのきしみは音になるだろう。


 私は、息を整えた。


 「――話は、ここでしよう」


 声は落ち着いていた。

 胸の火は強く、掌の輪は澄んでいる。

 兄上の気配が背に重なり、仲間たちの視線が横から支える。

 ジェイドの温もりが、ほんの少しだけ私の肘に残っていた。

 それだけで、十分だった。


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