13-5 枇杷の姫の目覚め
第十三幕 緋の揺籃
五章 枇杷の姫の目覚め
継命の環は静かに回り続け、帝都の息は落ち着いてきた。
笑い声と泣き声が混ざり、家々の中に火が入り、人の出入りが戻る。
私は掌を下ろし、胸の鼓動を聴いた。
背では、兄上の呼吸が輪の拍に重なっている。
大きくも小さくもない、確かな呼吸だ。
それに背骨を支えられながら、私は視線をひとつの場所へ向ける。
翡翠の繭だ。
さっきまで深い眠りの色で光っていた表面が、いまは朝の霧みたいにやわらいでいる。
継命の環の光と、黎明の繭の光が、争わずに混ざりあい、それぞれの色を保ったまま世界に溶けていく。
強く押すのではなく、静かに染みていく。
光の境目が薄くなり、息を合わせるみたいに明滅した。
ミィが一歩、繭へ寄った。
丸い背中がふるりと震え、耳がぴんと立つ。
「……ミィ?」
私が名を呼ぶより早く、ミィは小さく短く鳴いた。
屋根の縁ではレイブンが身を乗り出す。翼の先がほんの少し広がった。
アーチの影にいたブラッドリィは、剣から手を離し、ゆっくりこちらへ歩み出る。足取りは急がないが、迷いがない。
繭の表面に、細いひびのような筋が走った。
それは壊れる音ではなかった。
硬い殻がほどける、やさしい音だ。
筋は一本ずつ増え、やがて真ん中で出会い、静かに開いていく。
中からあふれたのは、冷たさではなく、ぬくもりのある光だった。
私は息を止めた。
そこに、彼女がいた。
長い眠りの中で守られていた呼吸が、浅く、そして少し深くなる。
まつ毛が震え、閉じた瞼の下で視線が動く。
頬に赤みが戻り、指先がほんのわずか丸くなった。
「……ジェイド」
名前を呼ぶと、彼女の瞳がゆっくり開いた。
翡翠の色が、光を受けて澄む。
最初は焦点が合わず、次に、私を見つけた。
目尻に涙が浮かび、それがすぐに溢れた。
安堵の涙。
彼女は唇を開いた。
声にはならなかったが、形ははっきりしていた。
――「ただいま」。
ミィが飛び込んだ。
小さな体が彼女の胸に埋まり、喉が鳴る。
ジェイドは両手でミィを包むように抱き、目を細めた。
「……あったかい」
かすれた声がこぼれ、ミィがもう一度鳴いた。
「おい、勝手に先を越すなよ」
レイブンが屋根からひと跳びで降り、繭の縁に止まる。
黒い瞳でジェイドを見つめ、いつもの軽口を探すように嘴を開いたが、言葉が出ない。
代わりに、レイブンは短く羽を震わせた。
「……よく戻った」
それだけ言って、彼は顔を背けた。耳の良いミィだけが、彼の喉の奥の震えに気づいて、ひげを揺らした。
ブラッドリィが一歩近づき、かがんだ。
繭の縁を傷つけないよう、手の置き場を確かめてから、静かに頭を下げる。
「姫。よく、ご無事で」
言葉は短いのに、長い時間の重みがあった。
ジェイドは笑って頷く。
「あなたも、無事でいてくれて、よかった」
ブラッドリィは一度だけ目を閉じ、胸に拳を当てる。
その仕草に、私の胸の奥の力が少し緩んだ。
私は繭に手を添えた。
指先に、彼女の体温が伝わる。
私は長く息を吐き、肩の力を抜いた。
「ああ……よかった」
声にした途端、目の奥が熱くなった。踏ん張っていた膝の震えを、やっと自分で認める。
ジェイドは私の手を探し、指を重ねた。
「生きてる」
かすれた声で、はっきりと言う。
私は頷いた。
「生きている。おかえり、ジェイド」
繭はもう殻ではない。
光の薄布みたいにやわらかくなり、彼女の動きに合わせて形を変える。
ミィが胸から肩へ移ると、繭の布もその位置で揺れ、レイブンが近づけば、影を受けて色を変える。
街の音は遠くで賑やかだが、ここだけは静かな庭のように穏やかだった。
私は耳を澄まし、輪の拍が落ち着きを保っているのを確かめる。
兄上は、背で呼吸を合わせ続けてくれている。何も言わず、ただ支えてくれていることが、これほど心強いとは思わなかった。
ジェイドはゆっくり体を起こし、周囲を見回した。
崩れた街灯、起き上がった旗、花を咲かせはじめた石畳。
「……戻ってきたのね」
彼女がつぶやく。
「もう、大丈夫だ」
私は言う。言い切れるのは、輪の拍と、人々の声がそれを支えてくれているからだ。
ジェイドはうなずき、私の肩に額を寄せた。
「ありがとう」
その重みは軽いのに、胸の奥まで届いた。
その時、ミィが視線をあげ、遠くを見た。
耳がまたぴんと立つ。
ひげがかすかに震えた。
「……?」
私は顔を上げる。
レイブンも同じ方向へ首を向け、羽の先をすこし広げた。
ブラッドリィは自然に一歩前へ出る。足の置き方が変わる。守りの姿勢だ。
輪の拍は乱れない。けれど、風の向きがわずかに変わった。
空から、白いものがひとひら落ちてきた。
雪に似ている。
だが冷たくはない。
それは私の掌の上で光り、すぐに溶けた。
溶けたあとには、微かな白い香りだけが残る。
懐かしいのに、胸が冷える香りだ。
私は立ち上がり、ジェイドの手をそっと離した。
彼女は理解したように頷き、ミィを抱き寄せる。
レイブンが低く鳴き、ブラッドリィは半歩だけ私より前へ出て立つ。
私は首を上げ、空を見る。
高い場所に、小さな光の点があった。
それは形を持ち、羽を持ち、静かに降りてくる。
白金の羽。
雪のように清い衣。
足音はない。
ただ、降り立つ前に、世界が一瞬だけ息を止めた。
彼は、私の目の前に降りた。
「スノウ」
私は名を呼ぶ。
彼は笑った。昔と変わらない、優しい笑みの形だけで。
だが、その優しさは、どこにも届いていなかった。
翡翠の繭の光が、彼の輪郭に触れて揺れる。
風が止まり、音が薄くなる。
街の遠い笑い声だけが、氷の下から聞こえるみたいに頼りない。
ジェイドの指が、私の袖をそっとつまんだ。
ミィの喉の鳴りが止まる。
レイブンは翼をわずかに広げ、ブラッドリィは視線を落として息を整えた。
私は前に一歩進み、足を止める。
輪は澄んでいる。
胸の火も消えていない。
ここから先は――もう、迷わない。
スノウが、薄く息を吸った。
その呼吸だけで、空気の温度が少しだけ下がる。
私は目を逸らさず、彼を見た。
降り立った彼の影が、石畳の上で細く伸びる。
その先に、私の影が重なっていた。
世界は静かだった。
けれど、静けさの中に、確かなきしみがあった。
次の拍で、そのきしみは音になるだろう。
私は、息を整えた。
「――話は、ここでしよう」
声は落ち着いていた。
胸の火は強く、掌の輪は澄んでいる。
兄上の気配が背に重なり、仲間たちの視線が横から支える。
ジェイドの温もりが、ほんの少しだけ私の肘に残っていた。
それだけで、十分だった。




