13-3 兄弟の癒し
第十三幕 緋の揺籃
三章 兄弟の癒し
継命の環は、もう帝都の隅まで伸びきっていた。
緋と闇が重なり、翡翠の繭と呼吸を合わせるたび、街は小さく身じろぎをする。屋根瓦の線がやわらぎ、石畳の目地を走る光は、糸のように細く、しかし途切れない。私はその流れの中心に立ち、指の一本一本でたしかめるように魔力を送り続けた。
体の中は、ほとんど空だ。
肩は重く、肘から先はしびれて、握った拳の感覚が薄い。喉は乾き、胸の奥で燃えていた火は、灰の中の小さな赤にまで縮んでいた。それでも私は、送り続ける。止めてしまえば、薄い膜の向こうでようやく温まった命の糸が、また冷えてしまう気がした。
「もう少しでいい。もう少しだけだ」
声には出さない。唇の内側で転がすだけだ。
輪の端は城門を越え、橋へ、郊外へ、さらに外へ。見えない遠さに届いていく。そのたび、胸の火は小さくなり、足取りは重くなる。私はゆっくり息を吸い、ゆっくり吐く。吐くたびに、緋の波がひとつ、ふたつ、広がっていく。
視界の端で、翡翠の繭が淡く光った。
ジェイドは、まだ静かに眠っている。繭の表面を撫でると、内側からかすかな鼓動が触れた。そこへ寄り添うように、黒猫のミィが丸くなっている。細い喉が規則正しく鳴って、繭の拍動に合っている。
近くの屋根の縁では、レイブンが翼をたたみ、じっとこちらを見ている。黒い瞳は鋭いが、その奥に焦りはない。私が立っているあいだは騒がないと、彼なりに決めている顔だ。
街路の端、崩れたアーチの影には、ブラッドリィがいる。片手を剣に添え、片手を胸に当てて、遠くの気配を測っている。彼は何も言わない。ただ、そこに立っている。
「……まだ行ける」
私は自分に言う。
環は応えるように脈を打ち、緋の粒を街に落とす。店先の壊れた看板が少し起き上がり、倒れた街灯の影が短くなる。眠る人々の胸元に、ひとつ、またひとつと温度が戻る。誰かが夢の底で泣き、誰かが笑い、誰かはただ深く息を吸った。死の雪の結晶は、緋に触れると、音もなく溶けて光の斑になり、衣の端や髪に小さな「生」を残して消えた。
限界は、音もなく来る。
膝が、折れた。
片膝が石に当たり、冷たさが骨を伝って背まで走る。両手のひらで体を支えたが、力は抜け続け、指先が滑った。視界の色が薄れて、遠くの輪郭がほどける。耳に入る街の気配も、深い水の底へ沈んでいくみたいに遠ざかった。
「……ここで、倒れるわけにはいかない」
声は掠れていた。けれど、心はまだ折れていない。
私は歯を食いしばり、環へもうひと押しだけ魔力を流す。薄い糸を無理に引き伸ばすような痛みが胸を走った。
喉の奥に鉄の味が広がる。足が震える。額の汗が石に落ち、すぐ冷えた。
背中に、温度が落ちた。
やわらかいのに、芯が強い温度。
その気配に、私は顔を上げる力もないまま、名前を探した。
「スカリー」
呼ばれた。
胸の奥にまっすぐ刺さる、確かな響き。
私は目を閉じ、息をひとつ吸った。
忘れようとしても忘れられない声。
闇の底で何度も手を伸ばした背中――。
次の瞬間、私は抱きしめられていた。
強すぎない。
けれど弱くもない。
壊れそうなところを知っている腕の回し方だった。
肉体だけじゃない。擦り切れて薄くなった魂の層ごと、包まれたとわかった。
「スカリー、よくやった。お前の闇は破壊ではない。命を紡ぐ力だ。…疲れたろう。私の力を持っていきなさい」
セルリアンの声は、湖の水面みたいに静かで、底が深かった。
その一言で、張り詰めていたものがほどけ、胸が熱くなる。目尻が勝手に熱くなり、涙が石に落ちては弾けた。私は悔しくなかった。情けなくもなかった。ただ、重さを預ける場所をやっと見つけた、という感覚だけがあった。
「……私は、まだ……立っていたい」
絞り出すように言う。
弱音ではない。願いでもない。
確認だ。
ここから先も歩けるのか、私に問うための言葉だった。
「分かっている」
兄は短く言い、抱擁をほどかない。
額を彼の胸に預けると、そこから温かい流れが降りてきた。雨が干からびた土を打つように、体の隅々に力がしみ込む。裂けていた魂の糸が一つずつ縫われ、途切れかけていた鼓動が整う。耳の奥で鳴っていた不規則な音が、やがて私と兄と、そして街の拍動と同じテンポで重なった。
セルリアンの魂には、摩耗がなかった。
長い時間を歩いてきたはずなのに、どこにも欠けがない。濁りもない。透き通った川が大地を静かに満たすような澄み方だった。その透明さが、そのまま私の中へ流れ込んでくる。
私は背筋が伸びていくのを感じる。縮こまっていた胸が開き、ひびだらけだった呼吸が、ひとつ、ふたつ、深さを取り戻す。
「兄上」
呼ぶと、返事は抱擁の力で返ってきた。
言葉はいらなかった。
けれど、私はもう一度、確かめるように口を開いた。
「私は……ここで終われない。まだ、やるべきことがある」
その声は、震えていなかった。消耗は残っている。足も腕も重い。けれど、芯は戻っていた。
「知っている」
セルリアンは、少しだけ体を離し、私の顔を見た。目は優しいのに、弱くない。長兄らしい揺るがなさが、そこにある。
「だから、支える」
抱擁が深くなった。
その瞬間、環がわずかに明るくなり、街が応えた。
広場の端で、倒れていた街灯が静かに直り、子どもが描いた落書きの線に薄い緋が走る。古い井戸の底に水音が戻り、石段の苔が瑞々しさを取り戻す。
翡翠の繭の表面では、ミィが小さく身じろぎ、レイブンが片翼をすこしだけ広げた。ブラッドリィは目を伏せ、握った拳をゆっくりほどく。その指は、長い戦いのあとにしか出ない、細い震えをしていた。
私は兄の胸に顔を押しつけたまま、ひとつ息を吐いた。
昔の記憶が、勝手に浮かぶ。
眠れない夜、暗い廊下の角で座り込んでいた私の頭に置かれた掌。
訓練場で剣を落とした私の肩を、笑いながら叩いてくれた手。
戦へ出る前、背に回った腕の重みと温度。
その全部が、今と同じだった。時間は過ぎたのに、土台は変わっていない。
「……ありがとう」
言うべき言葉は、それしか思い浮かばなかった。
兄は首を振った。
「礼は要らない。お前がここまで持ってきたものだ。私は、落ちないように手を添えるだけだ」
その言葉に、胸の奥で何かが静かに外れた。
私は抱擁から身を離し、ゆっくり立ち上がる。
足の裏に、石の感触が確かにある。
膝はまだ重いが、崩れない。
背中に兄の気配が重なっていて、その重さが、私を沈めるのではなく支えてくれる。
私は両手を少し開いた。
掌に宿る輪が澄み、緋と闇がきれいに重なる。
「私は、守る」
短く言う。自分に向けてでもあり、街に向けてでもある。
「この闇で、命を結び直す」
輪は再び脈打ち、帝都の隅々へ温度を送り出した。
眠る兵の喉がふっと鳴り、祈りの姿勢のまま固まっていた老人の指がほどける。産着を抱いていた母は、子の頬に自分の頬をそっと重ね、涙を零した。死の雪の結晶は最後の硬さを失い、光の粒になって空気に溶けた。光は霧にならない。消えない。髪先や衣の糸に、かすかな印として残る。
レイブンが屋根から軽く鳴いた。
「――やっと息が通ったな」
彼の声は低いが、棘は抜けている。ミィは繭に鼻先を押しつけ、小さく鳴いた。ブラッドリィは一歩だけこちらへ寄り、何も言わずに頷いた。私は頷き返す。
その間、セルリアンはずっと背にいた。言葉より長く、言葉より確かに。
「兄上」
私はもう一度だけ呼んだ。
「ここから先も、共にいてくれ」
頼る言い方ではない。並んで歩くための確認だ。
「最初から、そのつもりだ」
兄の返事は短い。けれどそれで十分だ。
私は息を吸い、胸の奥に新しい火がついたのを感じた。小さくない。もう、消えそうでもない。しっかりとした炎だ。
東の空が、ほんのわずかに明るい。
夜明けには、まだ時間がある。それでも、帝都の空気は確かに朝に向かっていた。
私は膝の重さを確かめ、肩を回し、視線を遠くへ送る。環は整い、街は揺籃に包まれている。もう、崩れない。私が立ち続ける限り、崩させない。
「私は行く」
誰にともなく言い、歩みを一歩すすめる。
繭のそばを通ると、内側から小さな返事のような鼓動があった。ジェイドの眠りは深い。だが、そこに迷いはない。レイブンが翼で風を起こし、ミィのひげが震える。ブラッドリィは踵を返し、私の斜め後ろについた。足並みは静かで、心地よい間がある。
背後から、兄の掌がそっと背に当たる。
その温度で、私はもう一度だけ目を閉じた。
かつて、私は自分の闇を呪いと呼んだ。
今、私はそれを揺籃と呼ぶ。
壊すためではなく、守るために。
奪うためではなく、結び直すために。
遠くで、風の向きが変わった。
まだ姿はない。だが、気配はある。雪の匂いをまとった、冷たい風だ。
私は目を開き、顎を上げる。
胸の火は強く、輪は澄んでいる。
「大丈夫だ」
誰にでもなく、空へ向けて。
大丈夫だ。私は、もう倒れない。
セルリアンが小さく息を吐き、肩が軽くなる。
背に重なるその魂は透明で、摩耗がない。
私の闇はそこに重なり、二つでひとつの環になって、街を包んだ。
帝都は、目覚めに向かっている。
私は一歩、また一歩と、確かめるように歩いた。
足音のたびに、石畳の緋がかすかに揺れ、光の粒が舞う。
誰かの胸の鼓動と、兄の呼吸と、私の歩幅が、同じ速さで並んでいく。
――さあ、もう一度立て。
心の奥の声が言う。
私は頷き、顔を上げる。
抱きしめられた温度は、まだ背中に残っていた。
その温度を連れて、私は前へ進む。




