12-5 深淵の囁き
第十二幕 虹の架け橋
五章 深淵の囁き
翡翠の繭を取り巻く虹の環は、夜空に揺らめきながら守りを固めていた。
だが、その外見の強さとは裏腹に、繭の傍らに立つスカーレットの胸は、押し寄せる不安で荒れていた。
継命の環――。
彼が張り続けているその術は、命そのものを糸に変えて繭へ繋ぐものだ。
糸は繭の呼吸と同調し、翡翠の鼓動に重なり合う。だがその均衡は脆い。彼がほんの一瞬でも意識を逸らせば、糸は解け、繭は空気を漏らしてしまう。
額から流れる汗が頬をつたい、喉の奥へ落ちた。
唇は乾き、肺は重く、指先は震える。
それでもスカーレットは目を閉じたまま、ただ糸の感触に集中し続ける。
――だが心は、揺れる。
(ジェイド…無事でいてくれ。あの白い影に捕らわれるな…!)
夢の奥に眠る彼女を想うたび、胸の奥に冷たい棘が刺さる。
スノウの気配が繭を蝕もうとしているのを、肌で感じ取っているからだ。外で仲間が戦っているのも分かっていた。レイブンも、ミィも、ブラッドリィも、そしてローズグレイも必死に門を守っている。
だが、相手は大天使。かつて兄を奪い、己を闇へ導いた存在――。
(あいつに…また、大切なものを奪われるのか……?)
不安が脈打ち、指先の糸が一瞬ふるえた。
糸はか細く揺れ、今にも千切れそうに見える。
「……っ!」
スカーレットは唇を噛み、必死に息を整えた。
だが、その一瞬の隙を、心の奥に潜む「声」が逃さなかった。
――スカリー。
懐かしい、深い声。
スカーレットははっとして目を開けそうになった。けれど、その直前に気づいた。目の前に兄はいない。繭を見守る場に、セルリアンの姿はない。だが、声だけが確かにあった。
「兄上……?」
彼は心の深みに視線を落とした。
そこは闇の底でも、光の中でもない。深淵――翡翠の鼓動と繋がる空白の奥。
その奥に、淡く青い光の粒が漂っていた。粒は一つではない。数え切れぬほどの微光が寄り集まり、やがて人の形を成していく。
「心配するな。信じて待て」
その声は揺らぎなく、弟の胸に響いた。
セルリアンの青き瞳が、幻影の中に浮かぶ。
「でも……兄上っ」
スカーレットの声は掠れ、必死に縋る。
「私ひとりで繋いでいるだけじゃ……足りないかもしれない。糸は細く、いつか切れる……、あの影は強すぎるんだ!」
セルリアンは静かに歩み寄ると、その幻影の腕で弟を抱きしめた。
温もりは確かにあった。幻影のはずなのに、胸の奥を満たす熱が、震える体を包み込む。
「細い糸だからこそ、切れないんだ。強く張った鎖は折れるが、柔らかな糸はしなる。結び直すこともできる」
耳元で囁かれる声に、スカーレットの肩の力が抜けていく。
「……私は、本当に支えになれているのか……?」
セルリアンは抱擁を緩めず、答えた。
「なれている。お前がいなければ、繭はもう崩れていただろう。スカリー、お前の存在が、ジェイドを護っている」
スカーレットは兄の胸に顔を押し当て、嗚咽をこらえた。
「私は……怖い。また奪われるのではないかと……」
「奪わせるな」
セルリアンは強く言った。
「奪われると決めつけるのではなく、奪わせないと決めるんだ。それが王の血に流れる意志だ」
スカーレットの目に熱いものがにじむ。
「……私に、できるだろうか」
「できる。お前は私の自慢の弟だ。王家の血を継ぐ者だ。強さはすでに備わっている。ただ、恐れを誇りに塗り替えればいい」
「誇り……」
「そうだ。守りたい者を思う心こそが誇りだ。お前の糸は、その心から生まれている」
抱擁が静かに解けていく。
セルリアンの幻影は薄れていくが、その温もりは弟の胸に刻まれたままだった。
「……分かった。…信じて待つ」
「それでいい。お前はお前の役を果たせばいい」
「…ありがとう、セリア」
「お前には私がいる。焦ることはない」
セルリアンの幻影が微笑み、薄く消えていく。
その笑みは、あの日と変わらなかった。
スカーレットは瞳を閉じ、震えを沈める。
「私は……信じる。ジェイドを。仲間を。そして、兄上を」
その瞬間、繭の鼓動がひときわ強く打った。
翡翠の光は虹と響き合い、帝都の空にさらに鮮やかな彩を放った。
スカーレットの心には、不思議な静けさが広がっていた。
残ったのはただ一つ――護りたいという誓いだけだった。




