表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
髑髏王と枇杷の姫  作者: べにいろたまご
第十二幕 虹の架け橋
124/166

12-1 眠りの守人

挿絵(By みてみん)





第十二幕 虹の架け橋

一章 眠りの守人




帝都の上にかぶさる翡翠の繭は、夜の海のように静かだった。

薄い光が鼓動に合わせて満ち引きし、家々の屋根、塔の先、凍えかけた噴水の縁まで、柔らかな緑がなでていく。人々はその光の下でようやく深く息をつき、窓辺の灯を落とし、眠りの中で小さく笑った。黒銀の花が空から落ちてきた日々は、遠い悪夢に押しやられていく。光が、恐れを包み隠す毛布になっていた。


繭の中心で、ジェイドは眠っていた。

眠りは深く、けれど沈んだままではない。彼女の胸は規則正しく上下し、耳を澄ますと、繭そのものがゆっくりと呼吸しているのがわかる。ひとつ吸って、帝都じゅうの痛みを集める。ひとつ吐いて、代わりに温もりを返す。呼吸に合わせて現れては消える光の輪が、彼女の周りを幾重にも巡っていた。


夢の中で、ジェイドは水音を聞いていた。

うす暗い森の奥で、枇杷の葉に夜露が落ちる音。枝がふるえて、熟れた実の香りが風に乗る。足もとには細い小川があり、石ころの上を流れる水が、笑うような音で彼女を誘った。手を伸ばすと、指先は冷たく、けれど痛くはない。水は翡翠の色をしていて、触れるたび、彼女の心に静けさを積み重ねてくれた。


「大丈夫」

彼女は誰にともなくつぶやく。

言葉は泡になって水面に浮かび、波紋のかたちで森に広がった。波紋はほどけ、薄い虹の粒になり、木々のあいだを渡って消える。虹はかすかすぎて、目を凝らさなければ見えない。けれど確かにそこにあって、彼女の眠りの底をささえていた。


繭の外では、静けさの隙間に気配が立った。

スカーレットは目を閉じ、継命の環を保っている。額に汗が滲み、唇は固く結ばれていたが、揺らぎはない。彼の両手は繭へ向けて差し出され、指先から透明な光の糸がのびている。糸はジェイドの呼吸と結び合い、脈打つたびに、もう一本、もう一本と細い筋を増やしていく。そのそばで、レイブンが黒い影のまま羽根を震わせ、ミィが丸くなって毛づくろいをしていた。ふたりの視線は、同じ一点――繭の中心へ吸い込まれている。


帝都の片隅では、鐘の音がひとつ鳴った。

それは誰かが朝を告げる練習をしたわけではない。風に押され、ひょいと揺れた古い鐘が、たまたま音を漏らしただけだ。だがその一音に、眠りかけていた子どもが目をこすり、窓辺に顔を出す。薄緑の光がその頬を撫で、子どもは肩の力を抜いてまた眠った。母親は寝台の端に腰かけて、外の光を見つめ、胸の前で小さく指を組む。祈りというより、礼を言うように。


ジェイドの夢は、さらに深いところへ降りていった。

森が開け、広場の真ん中に小さな石の祭壇がある。祭壇にはひびが走り、ひびの間から細い芽が顔をのぞかせていた。芽は翡翠色、葉は薄く、たよりない。けれど、根は強い。石の下へ、下へ、眠っている記憶を捜すように延びていく。ジェイドはその芽に掌を重ね、そっと温度を分け与えた。掌の温かさは芽に移り、芽の鼓動は繭の鼓動と揃っていく。


「待ってて」

今度の声は、誰かに向けられていた。

その誰かが誰なのか、夢の中の彼女ははっきりとは思い出せない。けれど、約束の感触だけは鮮やかだ。彼女はうなずき、芽から手を離し、周囲を見渡した。木陰の向こうに、細い道が見える。道は淡い光を帯び、遠くで海の匂いに変わっていった。道の上に漂う粉のような光が、時おり、七色の面影を見せる。


繭は呼吸を続ける。

吸うたびに、帝都の傷が繭に移り、吐くたびに、癒やしが帝都へ戻る。光は瓦屋根の割れ目に入り込み、ひびをなぞって消える。兵舎の寝台では、傷を負った兵が浅い眠りの中でうなされ、次の瞬間には胸の上下がゆっくりに整った。市場の広場では、倒れた屋台を寄せ集め、焚き火を囲んでいる人々がいた。火よりも繭の光のほうが温かく、彼らは手を出して、光をすくう真似をして笑った。


レイブンが、低く鳴いた。

それは合図であり、警告でもある。ミィが顔を上げ、耳をぴんと立てた。風が変わったのだ。冷たさの質が、繭の外側でひっそりと入れ替わる。冬の冷たさではない。雪に触れたときのような、肌の表面だけをしびれさせる軽い刺す感覚でもない。もっと乾いて、音を奪う冷たさ。音を、色を、匂いを、順番に外していく冷たさ。


スカーレットの睫毛がわずかに震え、しかし彼は集中をほどかなかった。

継命の環は、細いが強い。目に見えないところで何度も編み直され、ほころびをその場で結び直す。彼は呼吸を数え、数と鼓動を一致させ、意識が薄れそうになるたび、ジェイドの名を心の中で呼んだ。そのたび、繭のどこかで微かな鈴の音が鳴り、糸はほどけずにすんだ。


夢の森に、白い粉雪が舞いはじめた。

季節が変わる速さではない。誰かが扉を開け、そこから外の気配が少しずつ流れ込んでくるような、地味で、けれど確かな変化。ジェイドは顔を上げた。粉雪は地面に落ちる前に溶け、溶けたしずくは霧になって、景色の輪郭を曖昧にする。彼女は一歩、祭壇から離れた。足もとはまだぬくもりを保っている。だが、森の遠景に薄い白が滲み、音の層が一枚、また一枚とはがれていく。


繭の表面で、光がわずかにさざめいた。

見張る者の眼でなければ捉えられないほどの揺らぎ。レイブンの羽根が音もなく広がり、ミィの背が低く構えに落ちる。ローズグレイはまだ姿を見せない。彼女の気配は遠く、けれどこちらへ向かっている。今はただ、侵入の気配だけが確かだった。


そのときだ。

翡翠の皮膜の一部が、雪の結晶のようにきらりと光り、すぐに元へ戻った。光は傷ではない。ただ、触れられた痕跡だ。指先で硝子に息を吹きかけ、曇りの上に小さな印をつけられたみたいな、あまりにも軽い痕。それでも、守人の目には十分だった。レイブンの瞳に冷たい光が宿る。ミィが喉の奥で短く鳴き、爪が床に触れて乾いた音を立てた。


ジェイドは夢の中で、振り向いた。

森の奥、枯れた枝のトンネルの向こうに、白が立っている。まだ輪郭はぼやけ、顔も見えない。ただ、そこに「寒さ」がある。寒さは姿を持ち、歩くたび、足跡を残さない。音を持たず、香りを持たず、代わりに記憶を盗んでいく。ジェイドは胸の前で手を組み、足を引かずに立った。彼女の後ろで、祭壇の芽がふるえ、小さく葉をひろげる。


翡翠の繭は、息を吸う。

そして、吐く。

帝都の屋根の上、眠る人々のまぶたに、薄い虹が一瞬だけ走った。気づく者はいない。気づいたとしても、朝の夢の名残だと思うだろう。けれどその一瞬は、守りの形が変わりはじめた合図だった。


白い影は、まだ扉のこちら側に立っている。

一歩踏み込めば、夢へ届く。まだ踏み込まない。外の静けさを量り、守りの厚みを測っている。

レイブンは羽根を伏せ、ミィは低く唸った。

スカーレットは糸を、さらに一本だけ増やす。

ジェイドは、芽に背を向けない。


眠りは深い。

目覚めは遠い。

それでも、繭の鼓動は乱れない。

――守人たちは、全員が自分の位置にいた。

白い影が、指先を翡翠へそっと伸ばした。

最初の、かすかな接触が訪れる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ