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髑髏王と枇杷の姫  作者: べにいろたまご
第十一幕 翡翠の祈り
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11-7 翡翠の祈り

第十一幕 翡翠の祈り

七章 翡翠の祈り




 夜の高みに、一本の光が立ち上がった。

 翡翠の柱だ。まっすぐに昇り、雲を貫き、星のあいだを静かに渡っていく。

 帝都の上でふくらんだ繭が、ようやく本当の形をとったのだと、私はすぐにわかった。

 光はまぶしいのに、目に痛くない。

 見上げるだけで、胸の奥の固いものがゆるみ、息が深くなる。


 雪はまだ降っている。

 だが、もう黒銀の花には変わらない。

 翡翠の膜に触れた雪は、ただの雪として落ちてきて、屋根に、石畳に、肩に、音もなく積もる。

 その静けさの中で、私は掌を広げた。

 白い結晶が掌の上で溶け、冷たさだけが残る。

 それが嬉しかった。

 雪が、ただの雪に戻ったことが。


 鐘が鳴る。

 ぼうん。

 翡翠の柱が、その音にうなずくように、ひときわ明るく脈打った。

 繭の呼吸と、街の呼吸が重なる。

 三つで吸い、三つで吐く。

 私はそれに合わせて息を整え、継命の環を胸の奥で回した。

 輪は、もう焦らない。

 今は、繭の鼓動に寄り添えばいい。


 視界の端で、レイブンが輪を描いた。

 赤い瞳が夜を縫い、低く鳴く。

 「主、外の山まで光が届いている。川の面も、海のはじも、翡翠だ」

 ミィが肩に飛び、緑の瞳を細める。

 「におい、きれい。死の匂い、どこにもない。眠りの匂いだけ。あたたかい」

 地上からブラッドリィが顔を上げ、剣先を土に立てて息を吐いた。

 「帝都の外も止まった。花はもう咲かない。……間に合ったな」


 私はうなずいた。

 「ジェイドが、やり切った」

 胸の奥に、彼女の気配がある。

 深い場所。

 翡翠の底。

 言葉はない。けれど、祈りがある。

 それは声ではないのに、はっきりとわかる。

 彼女は世界じゅうの息を、ひとつの布でそっと包み、ほどけないように抱いている。


 帝都の通りで、人々が眠っていた。

 石段の老人も、広場の母子も、市場の商人も、城門の兵も。

 みんな安らかな顔だった。

 胸は静かに上下し、まつ毛は雪の光を受けてうっすらと濡れている。

 夢を見ているのだろう。

 誰かの手を握り、昔の歌を聞き、遠い春を思い出しているのかもしれない。

 それでいい。

 起こすのは今ではない。

 起こす役目は、繭から環へわたされる。

 そして、そのときが来るまで、彼らの魂は安全だ。

 翡翠の繭が、ちゃんと預かっている。


 私は塔の上から、繭の広がる先を見渡した。

 帝都の城壁を越え、畑を越え、森を越え、山を越え、海を越え、光は遠くへ遠くへと薄い幕を伸ばしている。

 幕はぴんと張られるのではなく、ふわりと重なり、少しずつ厚みを増していく。

 やわらかいのに、強い。

 押されても、破れない。

 祈りの布は、そういう手ざわりだった。


 翡翠の柱は、やがて柱ではなく、空一面の淡い光へとほどけた。

 夜空は深い緑に染まり、星はその内側でいつもよりも近く、温かく見えた。

 雲の縁が、朝の前のように白く光る。

 まだ夜は終わらない。

 けれど、夜の内側からもう夜明けが用意されているのがわかった。


 「ジェイドの祈りが届いた」

 ブラッドリィが小さく言った。

 彼の声は、剣の刃よりもやわらかかった。

 レイブンが「そうだ」と頷き、ミィが「うん」と喉を鳴らす。

 私は目を閉じて、同じ言葉を胸の中でたどった。

 枇杷の姫──ジェイドの祈りが、たしかに世界に満ちている。

 それは誰にも奪えない光だ。

 誰の目にも見える光だ。

 夜空を貫いたその光は、今、天空全体をやさしく照らしている。


 私は環を重ね、繭の呼吸と完全に合わせた。

 輪は見えない。

 けれど、はっきりと感じる。

 輪が回るたび、繭の内側で眠る魂が、ほどけずに守られていく。

 帰る道が、ゆっくりと磨かれていく。

 そして、心の奥の一番小さな灯が、消えずに保たれていく。

 私の役目は、その道を太くすること。

 繭から環へ、祈りのバトンを受け取ることだ。


 帝都のはずれで、かすれた歌が聞こえた。

 雪かきの古い節だ。

 眠っているはずなのに、誰かの唇がわずかに動いたのだろう。

 歌はすぐに消えた。

 でも、その短い音だけで、涙が出そうになった。

 生きている。

 世界はまだ、ここにいる。

 それを確かめるだけで、十分すぎるほどだった。


 私は塔の縁に手を置き、下を見た。

 レイブンが屋根から屋根へ印を残し、薄いところを探っている。

 ミィが鼻を上げ、匂いの流れを嗅ぎ、危ない場所を前もって教える。

 ブラッドリィは倒れた人々の周りを見張り、焚き火ではなく布で温もりを分けている。

 火は群れさせない。

 翡翠の水は薄く。

 目を下げ、印を見る。

 私たちが積み上げてきた約束が、まだ役に立っている。

 だがもう、花は追ってこない。

 繭が間に入って、すべてをやわらげている。


 私は深く息を吸った。

 三つで吸い、三つで吐く。

 胸が落ち着く。

 翡翠の光は、遠く遠くまで伸びたまま揺れている。

 その揺れが、「任せた」と言っている気がした。

 繭は完全体になった。

 ここから先は、環の仕事だ、と。


 「ジェイド」

 私は夜空に向かって名を呼んだ。

 返事は来ない。

 けれど、翡翠の光がわずかに明滅し、鐘の音と同じ間でうなずいた。

 私はそれだけでよかった。

 信じるには、十分だ。

 君は眠り、世界を抱いている。

 なら、私は起きて、世界を返す。


 帝都の南で、雲がちぎれ、月が顔を出した。

 翡翠の膜ごしの月は、薄い翡翠色を帯び、冷たいのに温かかった。

 その光が、繭に包まれた人々の頬に落ち、きらりと小さな光を生む。

 ひとつ、またひとつ。

 それは星のようで、けれど星より低く、手の届くところにあった。

 私はその光を、忘れないと決めた。

 いつ、どこで、どんなに戦いが深くなっても。

 この光は、道しるべになる。


 「主」

 レイブンが肩に降りてきた。

「空の見張りは任せろ。白い影は、もう笑えない」

 ミィが私の胸に顔を押し当てる。

 「大丈夫。繭が守ってる。あとは、あなたの番」

 ブラッドリィが剣を抜き、静かに鞘に戻した。

 「道は開けた。やり遂げよう、スカル」

 私はうなずいた。

 「ありがとう。……これから環を広げる。ひとりひとり、順に返す」


 翡翠の光が、夜空のてっぺんで丸く結び、天の穹に淡い輪を描いた。

 その輪は、私の環の形に重なって見えた。

 繭と環。

 二つでひとつ。

 この夜は、その約束が世界の上で完成した夜だ。

 私は掌を開き、胸の前にゆっくりと輪を作った。

 輪は見えない。

 けれど、雪も、星も、鐘も、翡翠の光も、すべてがその輪の中に入ってくる。

 私は輪に息を吹き、静かに回した。

 繭の呼吸とぴたりと合う。

 準備は整った。


 帝都のすみずみで、眠る人々の胸の鼓動が、ふっと揃う瞬間があった。

 ぼうん。

 鐘に合わせて、翡翠の光が一段と強くなり、そして穏やかに落ち着く。

 世界は、祈りの中にある。

 祈りは、光になった。

 その光は、道を照らしている。

 ここから先、私が歩くべき道を。


 私は、夜空に短く告げた。

 「受け取った。君の祈りを」

 翡翠の膜が、音もなくうなずいた。

 私は目を閉じ、胸の奥の輪に手を添えた。

 これから始める。

 繭が預かった命を、ひとりずつ、確かに呼び戻す。

 それが、髑髏王である私に託された顛末だ。

 闇はまだ深い。

 だが、もう迷わない。

 夜空の翡翠が、私の背を押している。


 雪は降り続ける。

 けれど、もう誰の息も奪わない。

 人々は眠り、守られている。

 枇杷の姫の翡翠の祈りは、確かに実を結んだ。

 そしてその祈りは、静かに、たしかに、継命の環へと渡された。


 私は目を開ける。

 遠い東の空に、ほんの小さな白が生まれた。

 まだ夜だ。けれど、朝は来る。

 私は輪を回し、歩き出した。

 君が預けた命を、君のもとへ返すために。

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