11-6 黎明の繭
第十一幕 翡翠の祈り
六章 黎明の繭
静けさが訪れた。
いや、正しくは──新しい静けさが訪れた、というべきだろう。
翡翠の繭が脈を打ち始めたその瞬間、帝都の空気ががらりと変わった。
風の音が遠のき、黒銀の花のざわめきが沈黙した。
人々の呻きも、雪の冷たさも、一度、深い水の底へ押し込められたようになった。
その代わりに、胸の奥にだけ聞こえるような鼓動が街を包む。
それはジェイドの心臓の音に似ていた。
彼女の翡翠が眠りの中で大きくなり、帝都そのものを抱きとめているのだ。
私は環を回しながら、目を見張った。
空に薄い緑の膜が張られていく。
それは最初、広場の上に弧を描き、やがて市場の屋根を越え、城門を覆った。
次の瞬間には帝都全体を包み、さらにその外へ伸びていった。
「……広がっている」
思わず声に出た。
私の環は追いかけるように回転を早め、繭の縁と重なっていく。
見えないが、確かに分かる。
翡翠の繭はもう街だけではなく、外界にも広がっている。
レイブンが空で鳴いた。
「主! 城壁の外、花が止まった!」
ブラッドリィが剣を振るい、叫ぶ。
「畑も、川も、もう咲いていない! 止まったんだ!」
ミィが肩で喉を鳴らす。
「死の匂い、消えた」
そうだ。
黒銀の花が、息を止めている。
まるで時そのものが止まったかのように、咲きかけのつぼみが空中で固まり、粉になることもなく静止していた。
死のカウントダウンが、止まったのだ。
私は深く息を吸った。
三つで吸い、三つで吐く。
鐘の音がぼうんと鳴り、繭の脈動がそれに答える。
世界が、ひとつの大きな呼吸をしている。
その呼吸の中心に、眠りについたジェイドがいる。
彼女はすべてを預け、繭を完全な形にしたのだ。
「……君は、強い」
私は心の中でそう呟いた。
私には分かる。彼女は倒れたのではない。
逃げたのでもない。
意志で眠り、繭にすべてを委ねた。
だからこそ、この広がりが生まれたのだ。
帝都の上空に、緑の光が揺れる。
雪は相変わらず降っているが、翡翠の膜に触れた途端、ただの雪に変わって落ちてくる。
人の息を奪うことも、花に変わることもない。
冷たいだけの雪だ。
私は掌を差し出し、白い結晶が環の上に溶けるのを見た。
こんなに美しい雪を、私はいつから忘れていたのだろう。
帝都の外からも声が上がった。
「花が止まった!」
「生きている! まだ息がある!」
遠い集落の灯が再びともり、人々が互いに抱き合って泣いている姿が見えた。
私は環を重ね、繭の脈動をさらに支えた。
輪は静かに回り、人々の命を帰す道を整えていく。
「スカル!」
ブラッドリィが駆け寄ってきた。
「見ろ、花は枯れたままだ! もう増えていない!」
「……ああ」
私の胸に、安堵が広がった。
だが、まだ終わりではない。
繭は確かに世界を包んだ。
しかし人々の魂は眠りに預けられたままだ。
次は私の環で、ひとりひとりを呼び戻す番だ。
それは、これからだ。
レイブンが羽を震わせ、私の肩に降り立った。
「主。花のざわめきは完全に消えた。死の雪の声も、届かない」
「そうか……ジェイドの繭が、世界全体を守っている」
「彼女は眠っている」
「……ああ。だが、選んで眠った。ならば必ず戻る」
ミィが肩で丸くなり、耳を動かした。
「翡翠の匂い、強い。生きてる。ちゃんと、ここにいる」
私はその言葉に救われる思いがした。
翡翠の繭が広がるほど、ジェイドの気配は遠くなった。
だが、確かに生きている。
彼女は繭と同化し、世界を包んでいるのだ。
私は空を仰いだ。
夜空に広がる緑の膜は、月を透かし、星を柔らかく揺らしている。
やがてその光は帝都を越え、山々を越え、海を越えていくだろう。
黒銀の花が生まれる場所すべてに繭が届くまで、広がり続ける。
そして、死の雪の呪いを完全に封じる。
「ジェイド……君は今、世界を抱いているのか」
胸の奥で呟き、環をさらに重ねた。
私は彼女を信じる。
だから、私もまた、彼女に応えなければならない。
黒銀の花のざわめきが消えた夜は、不思議な静けさに満ちていた。
人々は深い眠りの中で安らぎ、帝都の雪はただの雪になった。
黎明の繭が、ついに真の力を発揮したのだ。
私は胸の奥で繰り返した。
「必ず返す。君を、必ず呼び戻す」
翡翠の膜は、その言葉に応えるように、夜空で優しく揺れた。




