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髑髏王と枇杷の姫  作者: べにいろたまご
第十一幕 翡翠の祈り
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11-4 眠りの決断

第十一幕 翡翠の祈り

四章 眠りの決断


 繭を広げるたびに、胸の奥で細い音がした。

 はじめは、氷がきしむような小さな音。

 それがだんだんと大きくなり、骨の奥をこする痛みに変わっていく。

 冷たい空気を吸うたび、肺が縮む。

 吐く息は白いけれど、私の頬は薄く汗でぬれていた。


 三つで吸って、三つで吐く。

 鐘の音に合わせる。

 ぼうん。

 息を合わせるたび、翡翠の光は少しだけ安定する。

 私は両手を前に差し出し、指の間から糸をのばした。

 繭は広場を越え、通りを越え、家と家をつなぐ布のように広がっていく。


 けれど、花は止まらない。

 角の影から、屋根のふちから、黒銀の芽が顔を出し、銀の縁をまとってひらく。

 かす、と鳴って、またかす、と鳴る。

 人の息に寄って、ひらき続ける。

 繭で包めば、花はしおれて粉になる。

 けれど、次の花がすぐに生まれる。


 「……間に合わない」

 思わず、そんな言葉がこぼれそうになる。

 私は唇をかみ、声をごく小さく絞った。

 「まだ、大丈夫。まだできる」

 自分に向けた言葉だ。

 でも胸の奥では、別の声が囁く。

 ――眠れ。

 ――いったん沈め。

 甘い声。やさしい手。

 私は首を振り、その手をほどいた。


 「ジェイド!」

 下から声が飛ぶ。ブラッドリィだ。

 彼は地上で花の輪を斬り、人の道を開けながら、私を見上げていた。

 「息を乱すな。短くてもいい!」

 その声は荒いのに、私の心をまっすぐ支える。

 私はうなずき、三つで吸い、三つで吐く。

 少しだけ、視界が澄んだ。


 「目を閉じるな。下を見ろ。糸だけを追え」

 屋根の上からレイブンの声。赤い瞳が夜の向こうを射す。

 私は足もとに目を落とし、薄い翡翠の線だけを見た。

 糸はそこにある。まだ切れていない。


 ふらり、と体がゆれた。

 膝が石に触れ、手元から光がこぼれそうになる。

 そのとき、頬にやさしい重みがのった。

 ミィが肩に飛び乗り、顔をすり寄せる。

 あたたかい。

 「起きて。まだ眠らないで」

 声はないのに、確かにそう伝わってくる。

私は「ありがとう」と息だけで言い、立ち上がった。


 繭はまた一枚、生まれた。

 石段に倒れていた老人の胸が、ゆっくり上下する。

 次は市場の路地、布の山のそばで力尽きた女の人。

 その肩に繭をかけると、黒銀の花は静かに崩れ、粉になって空に消えた。

 ……間に合った。

 けれど、私の中の翡翠は削れていく。

 指先が冷え、爪の色が薄くなる。

 耳の奥で、遠い鐘が二重に重なって鳴る。


 「まだできる?」

 ミィが喉を鳴らす音が問いのように聞こえた。

 「うん。できる」

 言ったそばから、意識がふっと軽くなる。

 からだが浮くような感覚。

 目を開けているのに、視界の縁が暗い。

 眠りが、足もとから入ってくる。

 私は、もう一度だけ深く息を吸った。


 そのときだった。

 胸のいちばん奥、翡翠の根があるところで、なにかがはっきり形をとった。

 ――この先は、意識を保ったままでは届かない。

 はっきりと、そうわかった。

 繭の本当の力は、眠りに意識を預けたときに目を開く。

 それは術に刻まれた約束だ。

 私はその約束から目をそらしていた。

 怖かったからだ。

 眠りに全部を預けて、もし戻れなかったら。

 心の声を置いていってしまったら。

 もう二度と、誰の名も呼べなくなったら。


 私は歯をかんだ。

 怖さは消えない。

 でも、怖さと並んで、もうひとつのものが胸にあった。

 信じる気持ちだ。

 私ひとりではない。

 レイブンが空から見てくれている。

 ミィが肩で体温を分けてくれている。

 ブラッドリィが地で押さえ、人を運んでくれている。

 そして――スカーレット様がいる。

 彼の環は、眠りから戻る道を開くための術だ。

 ふたりでひとつ。

 ローズグレイの言葉が、静かに胸に降りてくる。

 「繭と環、二つでひとつ。片方だけでは道は半分」


 私はゆっくり顔を上げた。

 雪の幕の向こうに、黒紅色の瞳があった。

 スカーレット様は、剣を納め、両手を広げ、見えない輪を重ねている。

 彼は私を見ている。

 ただ見ているだけなのに、その瞳は言っていた。

 「君を、信じる」

 そのまっすぐさが、胸の奥の恐れを少しずつほどいていく。


 「スカーレット様」

 私は呼んだ。

 雪と鐘の音のあいだを、私の声がまっすぐ進む。

 彼の瞳が、わずかに揺れてこちらを掴んだ。

 私は息を吸い、吐いた。

 言うべき言葉を、きちんと選ぶ。

 倒れるのではない。

 あきらめるのでもない。

 選ぶのだ。

 私が、私の意志で。


 「私を……信じてください」

 声は震えなかった。

 言って初めてわかった。

 私は、私を信じてほしいだけじゃない。

 私も、あなたを信じている。

 あなたが“戻す道”を握っていることを。

 あなたが“戻す人”であることを。


 レイブンが大きく輪を描いた。

 「鐘に合わせろ。今だ」

 ミィが肩で軽く爪を立てる。

 「行って。戻ってくる道は、こっちにある」

 ブラッドリィの声が下から響く。

 「任せろ。守る。時間を稼ぐ」

 みんなの声が私の背に手を添えた。

 背中が、前へ出る。


 私は両手を胸の前で重ね、目を閉じずに、まず一度だけ深く息を吸った。

 三つで吸い、三つで吐く。

 翡翠の光が胸の中で広がる。

 光はやわらかい。

 けれど芯がある。

 私はその芯を、手放すのではなく、繭へ預ける。

 預ける、という感覚だ。

 捨てるのでも、失うのでもない。

 明け方まで一時、誰かに子を託すように。

 必ず返してもらうために。


 「黎明の繭……私を通って、もっと広く」

 小さく呟く。

 翡翠の糸が胸からひろがり、私のからだの輪郭をゆっくり溶かしはじめた。

 手の重さが消え、足先の冷えが消え、代わりにやさしいあたたかさが満ちる。

 視界の端の暗さが薄れ、世界の輪郭が遠のく。

 でも、怖くない。

 私の耳には、鐘の音がある。

 ぼうん。

 私の呼吸がある。

 三つで吸い、三つで吐く。

 スカーレット様の環の気配がある。

 静かに回る輪の音が、胸の裏側でたしかに響いている。


 私は最後に目を開け、彼を見た。

 黒紅色の瞳。

 あの色は、夜の中でいちばん確かな灯だ。

 「スカーレット様」

 今度は声に力を込めた。

 「私を信じて。私は、繭に意識を預けます。もっと遠くまで、もっと深くまで。帝都だけでなく、外へも届くまで。あなたの環があれば、私は戻れる。そう信じています」

 唇が乾いていた。

 けれど、言葉はまっすぐに出ていった。

 彼の喉が小さく動いたのが、雪越しにもわかった。


 私は目を閉じた。

 落ちる、というより、沈む。

 翡翠の底へ、音もなく。

 暗くない。

 薄い緑の光が、層になってゆれている。

 遠くで、ミィの喉の音。

 もっと遠くで、レイブンの短い合図。

 さらに遠くで、ブラッドリィの叫びと剣の響き。

 そして、一番近くに、彼の輪の気配。

 私はその輪に、細い糸を結んだ。

 これが帰り道。

 必ず、ここへ。


 意識はもう、からだから半分ほど離れている。

 私は最後の確かめをした。

 繭の糸は切れていない。

 鐘の間は守られている。

 スカーレット様の環は回っている。

 大丈夫。

 「行ってきます」

 小さな声が、私の喉を通って出たかどうかは、もう分からなかった。

 でも、胸は答えた。

 行っておいで、と。


 翡翠の光が脈打つ。

 帝都の上で、繭の膜が大きくふくらみはじめる。

 街の輪郭が薄い緑に染まり、黒銀の花の動きが鈍る。

 花の音が、かす、から、か、に変わる。

 眠りへ誘う手が、射すような冷たさから、布のようなやわらかさに変わる。

 繭が預かったのだ。

 命を、確かに。


 私は深く沈む。

 翡翠の底へ。

 怖さは、もういない。

 代わりに、朝の手前の静けさがある。

 その静けさの中で、私は自分の名前を思い出し、ひとつだけ握りしめた。

 ――戻る。

 それだけ。


---


#### スカーレット(私)


 ジェイドが、こちらを見た。

 翡翠の光の底から、まっすぐに。

 「スカーレット様……私を信じて」

 その一言が、雪よりも静かに胸に落ちた。


 私は頷こうとして、頷く前に彼女のまぶたが閉じた。

 倒れたのではない。

 選んで、沈んだ。

 その違いは、私にもはっきりとわかった。

 翡翠の繭が脈打つ。

 帝都の空に、見えない膜が大きく広がっていく。

 黒銀の花が身をすくめ、花の音が遠のく。

 私は両手を前に出し、継命の環を重ねた。

 輪は静かに回り、繭の呼吸に合わせて広がる。

 「必ず返す」

 声には出さなかったが、胸の奥の言葉は確かだった。

 君が預けた命を、私は返す。

 君が預けた君自身を、私は呼び戻す。

 そのために、私はここにいる。

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