10-7 花の正体
第十幕 黒銀の祝福
七章 花の正体
Ⅰ スカーレット
剣を振るうたび、黒銀の花がほどけた。
一閃で、花は光の粉になり、音もなく昇って消える。かす、と鳴る前に、もう形がない。
だが、道の端、屋根の陰、倒れた兵の肩──切り払ったそばから、また新しい花が芽を出す。細い黒が土から伸び、銀の縁をまとって、ひらく。終わりがない。
鐘楼のゆっくりした鐘が、腹の底まで響いてくる。
人々の息は、その音に合わせて少し落ち着いた。ジェイドの糸だ。あの輪が、街の心臓をやっとのことで繋いでいる。
レイブンが空から印を降ろし、ミィが屋根の上で鼻を上げる。二つの眼が、進むべき細い道を見つけてくれる。
私は剣を構え直し、狭い路地に踏み入った。
花の輪が足首に絡みつく。刃で切る。粉になる。だが、気配は薄くならない。
「斬っても、止まらないか」
呟きは白い息になり、すぐに雪に溶けた。
恐れを飲み込む時間は終わった。恐れられても、斬る。私は髑髏王だ。守る側だ。
広場に出ると、噴水の縁に小さな体が寄り添って眠っていた。母の腕に子。目は開いて、夢の底を見ている。肩には黒銀の花。
「もう少しだけ、待っていろ」
心の中でそう言って、私は剣を走らせた。花がほどける。次の花が芽吹く。
空は白い。地は黒い。銀が縫う。
私の一閃一閃が、わずかな「間」を作る。その「間」を、ジェイドの輪が広げていく。
止められない増殖の中で、私たちは細い道を一本、また一本と通している。
だが、このやり方では、街が持たない。直感が言う。どこかで、花の芯に手をかけなければ。
「主、北の屋根へ」
レイブンの声が落ちた。赤い瞳が示す先へ、私は跳んだ。
そこは雪を溜めやすい広い屋根で、花が一面に咲いている。
剣を振る。光。昇華。
ふと、花の揺れが、私の呼吸より半歩早いと気づく。
先回りしてくる。私の鼓動を読んで、形を変える。
──嫌な既視感。
胸の奥に、古い名が浮かぶ。
死の雪。
だが、あれは雪だ。これは花だ。
私は眉を寄せる。確かめるには、翡翠の目が要る。
「ジェイド」
呼ぶ前に、翡翠の糸が肩に触れた。
すぐ側に、彼女の息づかいが来る。
---
Ⅱ ジェイド
鐘楼から伸ばした翡翠の糸は、街の上を泳ぐ光の川になっていた。
私はその川を手繰り、北の屋根に着地する。ミィが先に降り、緑の瞳で花の揺れを数えた。
「速い。心臓より半拍早い」
レイブンが低く鳴く。
「死の雪のときと、揺れが似ている」
私は膝をつき、花に顔を近づけた。
黒い面に銀の縁。ひらくたび、かす、と空気が薄く鳴る。
翡翠の糸を一本、指の間に通し、花の裏へ潜らせる。
冷たい。けれど、ただの冷たさじゃない。
中に「引きずる手」がある。暖かいものを探し、ゆっくりと引く手。
私は息を三つで吸い、三つで吐く。
花も三つでひらき、三つで閉じる。
速くしても、遅くしても、ついてくる。
ただ、ほんの少し遅れたときに、芯の向こうから別の揺れが顔を出した。
──雪の揺れ。
白いものが、遠い場所で笑うときの揺れ。
思い出す。第五幕の夜。
いにしえの魔女、ローズグレイが言った声。
――死の雪に対抗できるのは、対の術だけ。黎明の繭と、継命の環。二つでひとつ。
あの時は、ただ「いつか」のための言葉だった。
今、花の芯で、それが現実に繋がる。
私の指先が震えた。ミィが小さく鳴いてくれる。
「大丈夫。見えてる」
翡翠の糸をさらに細くし、芯に触れず、すぐそばをすべらせる。
芯の下に、雪がいる。
黒銀の花は、雪の顔だ。雪が息を盗むためにつけた仮の顔。
これは、死の雪の変異体。
死の雪──死に向かう絶対の呪い。
切っても、焼いても、押しても、止まらない。
ただひとつ、道はある。
命をいったん眠りに預け、戻す。
ローズグレイが教えてくれたとおりに。
「スカーレット様!」
私は屋根の端に立つ背に呼びかけた。
「花の正体がわかりました。これは死の雪の変異体です。雪が姿を変えて、息に寄って咲いています!」
剣の閃きが止まる。彼がこちらを見る。黒紅色の瞳が、翡翠の糸を受けとめた。
私は続ける。
「対抗できるのは、あの二つだけ──黎明の繭で命をいったん眠りに預かり、スカーレット様の継命の環で眠りから呼び戻す。二つでひとつです。今が、そのときです」
ミィが足元で尻尾を打つ。
「糸、いける。繭を通す道、もうできてる」
レイブンが輪を描いて降り、「主、決断を」と短く鳴いた。
私は頷き、胸の前で手を合わせた。
翡翠の光が、繭の形をとりはじめる。
黎明の繭。
まだ朝になれない命を、壊れる前に包んで守る術。
繭は眠りを借りる。借りて、ほどく時間を稼ぐ。
スカーレット様の環があれば、繭は目覚める場所へ繋がる。
私は深く息を吸い、吐いた。
「間に合います。まだ、間に合う。今なら」
---
Ⅲ スカーレット
ジェイドの声が、剣よりも鋭く胸に入ってきた。
死の雪──それは、どんな刃でも止められない「死への流れ」だ。
ローズグレイは確かに言った。
君たちは二つでひとつ。命を眠りに預け、また戻せ。
その時が来る、と。
今だ。
私は剣を下げ、息を三つで吸い、三つで吐いた。
恐れが薄れる。決めると、静かになる。
視界が澄む。
花はまだ増えている。広場も、路地も、城門も。
城壁の外へ目をやる。
黒銀の輪が畑を呑み、川の面に薄い花が浮かび、街道の上を星座みたいに走っている。
帝都だけじゃない。
外界へも広がっている。
だが、心は静かだ。
選択肢は、ひとつ。なら、迷わない。
「ジェイド」
私は名を呼ぶ。
「君は繭を。私は環を。君の輪を道にして、私の環で呼び戻す。順番は君からだ。眠りを守れ。私が返す」
「はい、スカーレット様」
彼女の返事は強く、短い。
レイブンが上空へ舞い上がり、合図の印をばらまく。
ミィが屋根から屋根へと走り、翡翠の糸を繋いでいく。
鐘が鳴る。ぼうん。
息の合図だ。
私は剣を鞘に納め、掌を空へ向けた。
刃ではなく、環を使う時だ。
継命の環。
バーミリオン王家の、闇の魔力の再生の力に息づいた術。今では私だけが使える、命を呼び戻す術。
輪は見えない。だが、確かにある。
私の胸の奥で、細い光が丸くなる。
光は一枚、また一枚と重なり、呼吸の間ごとに広がる。
その輪は、ジェイドの繭に触れて、ゆっくりと回りはじめる。
まずは広場だ。
母と子。
ジェイドの繭が二人を包む。花の音が消える。
私は輪をそこへそっと重ねる。
冷たい糸がほどけ、眠りが深く、温かい眠りに変わる。
心臓の打つ音が、遠くから帰ってくる。
「戻ってこい」
声に出さずに言う。輪が応える。
子の胸が、浅く上下した。
次の拍で、母の指がわずかに動いた。
まだ目は開かない。いい。繭が守っている。
目覚めさせるのは、一斉ではない。順に。確実に。
私とジェイドの二つの術が、初めて同じ場所で重なった。
次は城門の兵。
剣を構えたまま眠っている若い肩へ、繭。
環を重ねる。
黒銀の花が縁からほどけ、粉になって空へ昇る。
兵の指先に色が戻る。
息が、鐘の速さに合った。
広場の反対側、市場の列。
水桶、魚、布。
繭。環。
繭。環。
私たちは、街の心臓に輪を描くように進んだ。
だが、花は止まらない。
街の縁から、また新しい波が入ってくる。
外へ広がった分、こちらへも押し返してくる。
押し合いだ。
なら、押し切る。
私は輪をさらに重ね、呼吸を崩さないように数えた。
ぼうん。
すう。
ぼうん。
すう。
“生きている”という音と輪を、街じゅうに撒いていく。
「主、北の屋根が濃い」
レイブンが告げ、ミィが低く唸る。
「白いの、そこに溜まってる」
ジェイドが繭を束にして送り込んだ。
「ここは私が押さえます。スカーレット様は広場の南へ。環が届きやすい」
「任せる」
私は屋根から飛び、南の道へ降りた。
道の両側で、花が星座みたいに光っている。
繭を受け入れる隙が生まれるたび、環を重ねる。
輪が回る。
回るたび、黒銀の輪が退き、白い雪だけが残る。
この雪は、ただの雪だ。
息を盗らない、冷たいだけの雪だ。
帝都の向こう、外界のほうから、風が一度だけ変わった。
黒銀の匂いが濃くなる。
花の波が、城壁を乗り越えてくる。
負けない。
選択肢は、もう見えている。
私とジェイドは、二つでひとつ。
輪と繭を重ね、守りながら、進むだけだ。
鐘がまた鳴る。
ぼうん。
街のどこかで、誰かが涙をこぼし、誰かが手を握り、誰かが目を閉じずにいられた。
花はまだ咲く。外へも広がる。
それでも、輪は重なり、繭は増える。
道が一本通った。
もう一本、通る。
その細い道が、いつか大きな道になる。
私には見える。
なぜなら、今この時、迷いがないからだ。
「ジェイド」
私は空へ向かって言う。
「ここから先は、君の繭と私の環で、街を一面に覆う。順に、焦らずに。いいな」
翡翠の糸が頬に触れ、「はい」と返る。
レイブンが輪を、ミィが道を、通してくれる。
私は剣の柄に触れ、けれど抜かない。
今必要なのは、刃より輪だ。
命を呼び戻す輪だ。
雪は降り続ける。
花は増えようとする。
それでも、胸の奥は静かだ。
選択肢はこれしかない。
だから迷わない。
黎明の繭で命を預かり、継命の環で命を返す。
この二つが、私たちの道だ。
希望は一本の糸から始まる。
糸は輪と結び、輪は人へ返る。
その先に、夜明けが来る。
私は掌を広げ、もう一枚、輪を重ねた。
ぼうん──。
帝都の真ん中に、目には見えない大きな環がゆっくりと回りだした。
夜は深い。
だが、深さの中で、確かな明るさが育っている。
私たちは進む。
この道しかない。
そして、この道でいい。
そう思えた。




