10-1 白き降誕
第十幕 黒銀の祝福
一章 白き降誕
冬の朝、帝都の空は、夜明けの青をそのまま引き延ばしたように澄んでいた。
最初のひとひらは、鐘楼の尖った屋根の上に落ちた。続いて二つ、三つ。やがて空いっぱいに、白いものが回りながら降りてきた。雪だ。
人々は顔を上げ、息を止めた。長く続いた不穏な日々のあとで、あまりに静かな、あまりにきれいな雪だったからだ。
市場に並ぶ果物の上に、白い粉がふわりとかかった。焼きたてのパンの匂いに混じって、冷たい清らかな香りがした。城門の脇に立つ衛兵は、槍の柄を握り直し、思わず笑った。肩に積もった雪は、羽のように軽い。
「祝福だ」
誰かがそう言った。ふしぎと、みんなが同じことを考えていた。
この街に、ようやく天の祝福が降りたのだ、と。
雪は白い花びらに似ていた。角度を変えれば、銀の縁取りが見える。日が差すたび、ひとひらひとひらが光を抱いて、あたりにやわらかな明るさを増やしていく。
子どもたちは歓声をあげた。裸足で駆け出そうとする子を母が慌てて引き止め、毛皮の上着を羽織らせた。古い教会の前では、巫女が両手を組み、目を閉じて祈っている。彼女の黒髪にも、肩にも、まつ毛にも、小さな白が積もっていった。
帝都は大きい。高い塔も、狭い路地も、王の住まう宮殿も、川をまたぐ大きな橋もある。雪はすべての上に降り、音を吸いこみ、世界から角を削った。角ばっていた言葉も、硬い顔つきも、なだらかに丸めていく。
露店のじいさんは、肩越しに空を見上げて言う。
「この冷えなら、春は豊作だ。川の流れが澄む」
その言葉に、並んだ人々の頬がゆるんだ。隣の魚屋の女は、包んだ小魚の上に落ちた雪を払わず、あえてそのまま渡した。
「きれいだから」
白は、記憶にやさしい色だ。
胸の奥に沈んだ痛みを、少しのあいだだけ見えなくしてくれる。
戦で夫を失った女も、病で子を送った男も、今日だけは空を見上げられた。雪が落ちるたび、その冷たさが皮膚を通り、心臓の周りの固い殻を少しずつほぐす。
城下の大通りを、旅芸人の笛が通り過ぎる。音は雪に包まれて遠くまで届き、逆に、近くにいるのにかすかに聞こえる不思議さがあった。笛の少年は手袋の穴からのぞく指を擦り合わせ、吹き口を温める。広場に集まった人々は、拍手というよりも、掌を胸に当てるような仕草で音に応えた。静けさを壊したくなかったのだ。
老兵のガロは、城壁の上で雪を見た。彼はこれまで、たくさんの冬を見てきた。雪も何度も見た。しかし、この雪は違っていた。
軽い。落ちる音がしない。
ひとひら手のひらに受けると、すぐには溶けず、薄い薄い薄氷のように形をとどめたまま、肌に張りつく。
「……冷たいな」
ぼそりとつぶやく。冷たいのは当たり前なのに、わざわざ言葉にした。言わずにはいられなかった。体温では溶けないほどの冷たさが、皮膚の下の古傷まで染みてくる気がしたからだ。
だが彼は、後ろにいる若い兵たちの笑い声に振り返り、肩をすくめた。みな、子どものような目をしている。こんな目を、どれくらい見ていなかっただろう。
川沿いの石段では、パン屋の娘ナナが、朝一番の籠を抱えながら空を見上げた。籠の上に布を掛ける手を止め、彼女は雪に頬を差し出す。
冷たさに目をつむる。
ぱちりと瞬きしたとき、彼女は胸の奥で、小さな決心をした。
今夜、母の遺した歌を、弟に教えよう。
歌は冬が似合う。
雪があるなら、なおさら。
路地裏では、孤児の少年ヨルが、猫の背中に積もる雪を指で払った。猫は迷惑そうに目を細め、けれど逃げない。ヨルの指も凍えるように冷たいのに、猫の体温はそこだけ春のようだ。
「白い日だな」
ヨルが言うと、猫は短く鳴いた。
白い日は、腹が鳴る音が少しだけ小さく聞こえる。雪のせいかもしれない。空腹をごまかしてくれるのなら、雪に感謝してもいい、とヨルは思った。
宮殿の最上階。大窓の手前で、若い書記官が一枚の布をひらひらと振っていた。乾かしたいのではない。雪の舞い方を見るためだ。風の癖、降りの密度。彼はただの書記官に見えて、じつは空を見るのが好きだった。
「いい降り方だ」
彼は誰にともなくつぶやき、机に向かい、短い記録を書いた。
――本日、白雪降る。街、静穏。人々の顔、明るし。鐘、三度鳴る。
彼が書いた言葉は、紙の上で乾き、束ねられ、やがて本の中に閉じ込められる。いつか、誰かが読み返す日が来るだろう。そこには、たしかに「白」があった、と。
昼前、雪はさらに細かくなり、世界は息を潜めた。
屋根の上の人形も、噴水の彫像も、王の騎馬像も、白い帽子を被ってしまった。石畳はやわらかく、足音は吸われる。怒鳴り声が減り、手の動きがゆっくりになる。ひとの心にある余白が、雪の分だけ広がっていく。
しかし、その余白には、言葉にならない違和感も住みついた。
雪のひとひらを舌の上に受けてみた子が、首をかしげる。
「味がしない」
母は笑って頭を撫でる。
「雪に味なんてないの」
子は頷いたが、しばらくしてもう一度、目をすぼめて空を見た。
雪はたしかに美しい。けれど、音が静かすぎる。
鳥はどこへ行ったのだろう。朝は、いつも屋根の上で鳴いていたのに。
午後、雪はやまない。空は明るいのに、日差しは弱い。窓辺の花は、つぼみを固く閉じた。
城下町の祈りの広場では、人々が輪になって静かな歌をうたっていた。声は重なり、白の中でふくらみ、溶け合った。そこに「恐れ」の響きはない。むしろ、長い間しまっていた「願い」の小箱がひとつ、またひとつ開くような音がした。
輪の外れで、旅装の男が背中の荷を下ろし、膝を折った。道の疲れが抜けていく。彼は、雪を見上げながら、遠い故郷を思い出していた。炊事の煙、母の手、弟の笑い声。白いものは、記憶の端をやわらかく照らす。
夕刻、門番の小屋で火が入った。肉を煮る匂いが漂い、若い兵が「うまそうだ」と鼻を鳴らす。老兵ガロは小さくうなずき、火の側に椅子を引いた。
「なあ、隊長」と若い兵が訊く。
「雪ってのは、いつまで降る?」
「さあな。気の済むまでだろう」
「気の済むまで?」
「雪にも気があるさ。止めと言ったら止む。そうでないなら、降り続ける」
若い兵は笑った。
「じゃあ、今日は機嫌がいい」
ガロは笑い返したが、その目は小屋の窓から白い外を離さなかった。降り方に、ほんの少しの癖。糸のように細い、変わった混じり気。それが何なのか、まだ言えない。言えるほどの形になっていない。ただ、兵としての長い勘が、袖を引く。
――注意しろ。
彼は火に手をかざしながら、その声を胸の内で聞いた。
夜が降りる。帝都は雪明かりに包まれ、いつもよりも少ない灯で十分に明るかった。
パン屋の娘ナナは店を閉め、弟と向かい合って座った。母の歌を歌う。簡単な旋律だ。雪が屋根を叩かない夜に似合う歌。弟は眠たげに目を細め、やがて歌の途中で舟をこいだ。ナナは毛布をかけ、窓を少しだけ開け、冷たい空気を胸に入れた。
「いい夜だ」
彼女は小さくつぶやき、灯を落とした。
孤児のヨルは、猫を抱いて教会の裏の古い扉にもたれ、眠った。猫の喉のふるえは、雪の降り方に似ていた。細かく、絶え間がない。夢の中で、彼は暖かいスープの匂いを嗅いだ。目を開ければ雪だが、夢の中には湯気が立つ。夢は、空腹の味を変えてくれる。
老兵ガロは、夜の見回りの途中、城壁の上で立ち止まった。月は雲に隠れているのに、街は淡く白く輝いている。遠い鐘の音が一度、二度、間を置いて三度鳴った。
そのとき、彼はふと、掌を広げた。
降りてくるひとひらを受ける。
雪はやはり溶けない。
ガロは眉をひそめ、息を吹きかけた。白い息が雪を包み、ふっとゆれる。だが、透明な薄片は形を保ったまま、皮膚に吸い付いていた。冷たいというより、静かだ。音のない氷が、血の流れの上に小さな膜を張る。
「……気のせいだ」
彼は自分に言い聞かせ、歩き出した。夜は長い。疑いは少し眠らせ、朝にもう一度起こせばいい。
宮殿の窓辺では、昼に記録を書いた書記官が、羽根ペンを噛みながら空を見ていた。
――本日、白雪降る。
言葉は正確だ。だが、書きそびれたものがある。
胸の奥の、小さなさざ波。
理由のない安堵と、それと同じ重さの不安が、天秤の上でぴったり釣り合っている感じ。
彼は新しい紙を引き寄せ、迷った末に、一行だけ付け加えた。
――雪、軽し。音なし。心、やや落ちつかず。
書き終えると、彼は恥ずかしさに首をすくめた。役目の紙に、心のことなんて書くべきじゃない。けれど、どうしても書かずにいられなかった。いつか、この一行が役に立つ気がしたのだ。
深夜、帝都は眠り、雪だけが働いた。屋根と道と壁をつなぎ、境目を消し、世界を一枚の白い布で覆っていく。
白い布はやさしい。やさしさは、ときどき、すべてを隠す。
隠されたものが何かは、まだ誰も知らない。知るはずもない。
遠い遠い場所で、灯りがひとつ揺れた。
宵闇の城の高い塔。窓辺に置かれた小さな燭台の火が、雪の夜の風に細くゆらめく。
眠れぬ誰かが、静かに目を開ける。胸の奥に、やわらかなさざ波。
その波は、帝都の上に落ちる白と、かすかに呼応していた。
名を呼ぶほどはっきりではない。けれど、確かに、どこかで誰かが、誰かを思い、耳を澄ませている。
その夜は、ただ白かった。
白はやさしく、白は静かで、白は美しかった。
そして、白は完全だった。
――あまりにも、完全すぎた。
朝が来れば、人々は気づくだろう。
白いものが、白のままではいられないことに。
だが今は、ただ、雪が降っている。
帝都の屋根という屋根、道という道、眠る人のまつ毛の上まで、すべてに等しく。
祝福と呼ばれたものが、眠りの中で、静かに根を下ろしていく。




