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髑髏王と枇杷の姫  作者: べにいろたまご
第九幕 終焉の序曲
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9-11 覗きの代償

第九幕 終焉の序曲

十一章 覗きの代償




 深淵の庭の静けさを、そのまま胸に抱いたまま、私は現し世へ戻った。

 石畳の冷気、塔の影、焦げた匂い――ロウクワットの呪陣は崩れ、灰と割れた光の残骸だけが庭に散らばっている。膝を震わせる者、虚ろに口を開けたまま立ち尽くす者。彼らの眼に、悔恨はない。ただ、慢心の抜け殻が空を見上げていた。


 ジェイド、レイブン、ミィは城奥に退かせてある。

 彼らを前に、この醜態を繰り返し見せる意味はない。私が終わらせる。今度こそ、完全に。


 風が、崩れた陣の灰を巻き上げた。

 灰は一度、空でほどけ、雪にも似た細片となって落ちる。だがそれは祝福ではない。愚行の降灰だ。

 彼らの口々から、掠れた呪文の名残が漏れた。自分たちが触れてはならない扉に、触れたという自覚はないのだろう。


「……なぜ、応えない……」

「王家の魂よ……来たれ……」


 耳障りな念の残滓が、庭の隅でぶつぶつと泡立つ。

 その音を断ち切るように、遠い森の影から、柔らかく冷たい囁きが流れてきた。


 ――僕だけを見ろ。

 ――最後に残るのは、僕だ。


 甘い毒。清らかな残酷さ。

 その呼吸を、私は知っている。

 白い雪が祝祷の形をして降るとき、人は祈りだと錯覚する。だが、そこにあるのは奪う意志だけだ。


 内側に残した光――炎花の灯が、胸の中心で密やかに脈打つ。

 氷花の微光が、その縁を静かに縫い止める。

 兄上の気配が、私の背をたしかに支えている。


 私は一歩、灰の中心へ出た。

 足元の線刻は焼け落ち、黒い溝となっている。顔を上げると、ロウクワットの者たちの瞳が揺れた。恐怖ではない。秤にかけるような、小賢しい計算の光だ。

 ――まだやれる。――次は成功する。

 その浅さに、心底うんざりする。


「二度は、ない」


 私の声は低く、乾いていた。

 庭に散る灰が、その音に反応して小さく鳴る。

 ロウクワットの誰かが、思い出したように私を指差した。憎しみと誇りを混ぜた、濁った目だ。


「我らは正義を――」


 言い終わる前に、私は息を吸った。

 深淵の庭で鳴った鐘の余韻が、胸に反響する。

 決めていた。迷いはない。ジェイドが既に目の前の一族と決別したことも、兄上がここにいることも、私の選択を確かにした。


 私は一言だけ、言った。


「散れ」


 それは叫びではなかった。囁きにも満たない。

 だが、王の言は法だ。

 言葉が庭に触れた瞬間、灰が逆風のように立ち、焼け跡の線が一斉に白く反転した。

 石畳の目地から光が滲み、塔の影が一瞬だけ真昼の輪郭を帯びる。


 次の瞬間、ロウクワット一族は――消えた。

 炎も、悲鳴もない。

 ただ、輪郭が解け、名だけが音になりかけて、そこで断たれる。

 彼らが足場としていた過去の誇りも、これから掴もうとしていた虚飾の栄光も、音もなく崩れ、庭に何ひとつ残さない。


 静寂。

 風が遅れて吹き抜け、そこにあったはずの体温の空白を撫でた。

 灰は落ちる場所を奪われ、空中でかき消えた。


 終わりだ。

 私は掌を下ろし、ゆっくりと息を吐く。炎花の灯が胸の奥で小さく収縮し、氷花の微光がそれを包む。

 裁きは済んだ。ここまでは。


 ……だが、覗いた者は彼らだけではない。


 庭の縁、森の最も深い影で、白がひとしずく震えた。

 声にならない息が止まり、凍るような沈黙が庭を横切る。

 見えない糸の残りかすが、私の胸の前で一度だけ鳴った――きしむ音。驚愕の気配。

 あの影は、見たのだ。

 深淵の庭の湖面に、氷花の光が在るのを。

 兄の魂が、私の中に留まっているという事実を。


 白は、わずかに退いた。

 退きながら、なおこちらを見ていた。疑いではない。理解だ。

 奪えない場所を、初めて知った者の目。

 甘い毒に、苦い鉄の味が混じる。そんな気配が、森の奥へ消えていく。


 私は目を閉じる。

 耳の奥に、湖のやわらかな気配が重なる。

 兄上。

 あなたの静けさが、ここにある。私の選び直した道を、ただ静かに照らしてくれる光として。


「心配はいらない」


 誰に向けるでもなく、私は呟いた。

 庭の空気がわずかに緩む。塔の影は元の長さに戻り、石畳の冷たさだけが確かな現実として残る。


 その現実の上で、私は改めて思考を整える。

 ロウクワットは消えた。だが、糸の向こうにいる本当の手は、まだそこにいる。

 清らかな顔をした残酷――白い雪。

 私の心を覗き、兄の名に触れようとした者。

 覗いた代償は、まだ支払われていない。


 城の北壁の上、見張りの魔灯が一つ、静かに灯る。

 合図はいらない。私が動けば、城は動く。だが、今はまだよい。

 戦いは次の幕で始まる。

 かつては孤独と呪いの炎だけを抱えていた私が、今は、翡翠の愛と氷花の守り、共に在る者たちの温度を携えて立つということを、あの白に見せるために。


 私は庭を離れる前に、ただ一度だけ、振り返った。

 灰も跡も残さず、ただ風だけが行き過ぎる場所。

 覗いた者の末路は、ここに刻まれた。

 次は――覗いた者自身だ。


 踵を返す。

 深淵の庭で整えた静けさは失われていない。

 炎花は胸で小さく燃え、氷花はその周りでわずかに瞬く。

 私は歩き出した。城の内へ、仲間の方角へ。そしてこれから続く戦いの入口へ。


 覗きの代償は、まだ序章。

 本当の終わりは、あの白と向き合う時にこそ訪れる。


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