アンシェルの失敗
家令のクインスから報告を受けたアンシェルは、右手で顔を覆い震えた。予想していた結果と違ったことで、愕然としたのだ。
「まさか彼女のあの様子が、怯えからくる恐怖の眼差しだったなんて。私の人生経験も点で当てにならないわね。
彼女には悪いことをしたわ。私もつい睨んだ顔を見た時、威圧を込めて微笑んでしまったし。
これはお詫びをしなければね。
クインス、例の物を至急で用意して頂戴」
「畏まりました。早速作成させ、お持ち致します」
礼をして踵を返すクインスの顔色も悪かった。
(あの時はお嬢様の意見に、俺も同意していた。あれはどうみても睨んでいたように見えたんだ。けれど……。
長年の恐怖による強ばりなら、そうなのだろうと納得出来る。俺の方が恥ずかしいぜ)
「ネルフィスさんは飛んでもない環境で生きてきて、どうしようもなくてお父様に頼ったと言うのに。
私は高みから彼女を決めつけようとしていた。
見た目に惑わされてはいけないと幾度も学んできた筈なのに、どうしても身内には視野が狭くなりますね。
けれど今は彼女の知られたくないことまで、勝手に暴いてしまいました。
ですので償いの為に、全力で彼女達を守ることを誓いますわ。
それで良いですよね、お母様…………」
目を瞑り、亡き母の面影に同意を求めた。
アンシェルは溢れ落ちる涙をレースのハンカチで拭い、音も立てず壁側に待機している侍女のティナに声をかけた。
「貴女もクインスから話を聞いていますね。私は大きな過ちを犯すところでした。
お母様から大きな権限を任されていると言うのに、この体たらく。今すぐ逃げ出したい気持ちです。
ですが……既にお母様の手掛けたことを放り出すことは出来ません。
今回も貴女に動いて貰います。良いですね」
涙を拭い去ったアンシェルは、悲しげな面持ちを消し去りティナに向き直って指示を出した。
「お父様の執務室に、ネルフィスさんの身請けをした証書があります。それを完璧に真似て複写を二部作成し、一部は元の場所へ戻し、一部は私の元へ運んで下さい。
それと今回の件を弁護士カナディに伝え、実物を保管して貰って下さい。私が正式にこの件を依頼すると伝えてね。可及的速やかにお願い」
「分かりましたわ、お嬢様。でも宜しいのですか? 旦那様と詳細を話す前で」
ティナはいつもと同じ、坦々とした様子でアンシェルに呟いた。
アンシェルもその問いに、何でもないように答える。
「良いのよ、いつも通りで。お父様は根回しがとにかく出来ない人だから。直球過ぎるのよね。
私はそれが嫌いではないけれど、悪人は何を仕掛けて来るか分からないから、抜かりなく準備しなければ。
だからお願いするわ」
「了解です。それではこれで」
微笑んで話すアンシェルに、表情には出さずに安堵するティナ。
彼女の年齢は40才を越えているが、化粧せずに30代前半に見え、化粧マジックで20代にも60代にも変身できる特技を持っている。
家令クインスと夫婦であり、共にアンシェルを守護する超側近だ。
だからこそ彼女は予測できた。
今回の件はたぶん、だいぶんややこしくなるだろうと。
アンシェルは母親譲りの銀髪と、父親の碧い瞳を持ち一見すると冷たい印象を受ける。ややつり目の猫のような大きな瞳は、他者からの視線にも拍車をかけた。
けれども………………。
母パルテェナ(超世話焼き)と父ロマンド(弱っている女性には後先考えず紳士的)の遺伝子を受けついた彼女は、とんでもなく母性に溢れた人だった。
あと泣き上戸。
パルテェナと同じように、動物とか人を拾ってくるのは日常で、厳しいチェックをするのはクインスの直属の部下クライスの仕事だ。すごく労力がかかるそう。
今回のことは彼女もちょっとロマンドに腹を立てていた(相談もなく結婚すると言って女性を連れて来た)ことで、冷静ではいられなかったよう。
いつもなら情報を集めてからでないと容易に推論を口にしないのに、今回はその前に苛立ちを口にしたことを恥じていたのだ。
だからこそ余計に、調査後の彼女は怒っていた。
ネルフィスを取り巻く全ての人間達に。
まずは公爵家の人間(夫、姑は確定。息子と舅は調査中)。
そして生家の父親、別居中の母親。
父親の愛人、ブルボンネとその子供マキシール。
特にブルボンネのことが業腹だった。
嫁ぎ先まで乗り込んで、カルドネ(伯爵)の娘を不幸に落とそうとする性根が。
いくら美人で若く見えるからと言っても、自らを姉と名乗って嫁ぎ先に行く異常さも。
きっとネルフィスは恐怖で、訪問や会話に抵抗出来なかったろうし、それを見て楽しんだのかもしれない。
そもそも妻の父親の愛人に嘘を吹き込まれて、調査もせずに妻や嫁を追い込むことも信じられない。
結婚前にした調査とかはないのだろうか?
仮にも公爵家の癖に!
「きっとネルフィスさん、生家から逃げたくて妥協で結婚したのだろうな。逃げられるなら誰でも良かったのかも…………。学生時代はマドンナと言われていたそうだし、選び放題だったろうに………………。
か、可哀想に、うっ、ぐすっ、相談出来る人がいれば、絶対あんなクズ男に嫁がなかっただろうに、ふえっ。
もうね、お父様には責任を持って幸せにして貰わないとだわ、ずびっ、籍入れてないとかで逃げ出したら、折檻するから!」
そして同じ年代のリーネのことも心配だった。
公爵令嬢なのに、貴族的な教育を何一つ受けられずに育ったからだ。恩恵の欠片もなく、メイド仕事をさせられて来たのだから。
「でもまだ8才。私と一緒に学べば、まだまだ間に合うわ。ビシバシ鍛えて、立派なレディにしてあげるから」
アンシェルは、第一印象からリーネを気に入っていた。そしてクインスの情報で“綺麗”だと褒められ、親密度は爆上がりしていた。
可愛い妹(予定)のことを考え、少し心穏やかになるアンシェルは、ロマンドから遅れてされるだろう報告を待っている。
(行動力は認めるけれど、支度金が相場の三倍ってのはないわよ。
お父様の資金は私と違って、血税なんだから)
ちょっとお怒りを添えて。