ライラックからの手紙
「公爵家の侍女長が、今頃私に何の用かしら? リーネの話だと使用人はマトモだと言っていたけど……」
ティナからペーパーナイフを受け取り、手紙を取り出す。読み始めるとそれは、ネルフィスとリーネのこれまでが綴られていた。
「アンシェル様へ
急なお手紙を貴女様に送るのをお許し下さい。恐らく侯爵家は、貴女様が掌握していることだと思い、宛先を貴女様にしました。
そちらの諜報が調査すれば、すぐにこちらの内情は知れると考え、いろいろと省かせて頂きます。
我が公爵家の前当主ダルナン様は、私ライラックを通して公爵家の現状を知っておられます。
迂闊に動けないのは奥様のダルサミレ様の姉、ミゼラ様のお子が大公だからです。
ネルフィス様のことを放置していたのは、ミゼラ様関連のこともありますが、ネルフィス様が現状を変えようとせず受け入れたこともありました。
もっと懸命に自らの潔白を証明し、浮気はないと抵抗することが必要でした。彼女はすぐに諦めモードでしたので。
実家が原因ならばそこは頼れずとも、ダルナン様へ手紙でも面会でもして話を聞いて貰うことは出来た筈です。
学生時代の友人、いえ顔見知りでも良いから、なりふり構わず動くことが必要でした。
何らかの動きがあれば、どんなに拙いものでもダルナン様は手を貸した筈です。ネルフィス様にはその必死さが不足しておりました。
魑魅魍魎蔓延る高位貴族の社交や付き合いは、自ら道を切り開く必要があるのです。ダルナン様が行動し一度か二度救ったところで、次から次ぎに発生する問題は、結局は自力で対応しなければならないからです。
父親の愛人に言いくるめられる状況では先がないと、ダルナン様は一度見切られたのでした。
けれどネルフィス様は、流されながらも家政、領地の経営、子育てと頑張りを見せました。
だからこそ私達公爵家の使用人も、手を貸していたのです。
何かも放り投げて悲劇のヒロインのように泣いていたなら、邸から放り出すところでした。
そして隠れて教育を施していたリーネ様は、苦労しているネルフィス様を見ていたせいか、早期に大人になりました。
3才からその片鱗を見せ、家事の合間時間で驚く量の知識を身につけました。調理、掃除、裁縫等は拙いながらも幼き時から実地で行っていたせいで、最早大人顔負けです。
ダルナン様は彼女の才能を評価しております。
ただ政略の駒にされるのを避ける為、淑女の令や動きだけは教育しておりません、念の為。恐らくすぐにマスター出来ると思いますが。
長男のブルーノ様の教育は次期公爵家の後継として、生まれる前からダルナン様の手の者が周囲を固め、守っております。
両親との関わりは薄い方ですが、真摯に仕える者がいることで、不安は感じずに過ごしていると思います。
ブルーノ様のお心までは分かりませんが。
ダルサミレ様とナユタ様が関わることも少なく、嘘や悪意のある情報が入らないのは幸いかもしれません。
母離れ、子離れ出来なかったお二人は、何も考えず相互依存状態で楽しそうに過ごされております。
ですが今までネルフィス様に押し付けていた仕事が、そろそろ回らなくなり、お二方は慌てる頃です。
かつて行っていた領地経営さえ、8年程放置したナユタ様はすぐにはついていけないでしょう。
それでも過去の資料を見直し家令達に助力を頼めば、数か月かかっても状況を把握し、仕事に取り組む土台だけは出来ると思います。
それが今のナユタ様が行えるかは疑問ですが。
書類には当主と当主から委任された血縁者しか記入出来ない機密文書もあります。ですから家令や執事に丸投げは出来ません。
けれどダルナン様の配下に教育を受けたブルーノ様なら、業務に着手することが可能です。プライドの高いナユタ様が、息子に頭を下げることは想像できませんが。
もしナユタ様での業務続行が不可である時は、ダルナン様が公爵家に戻り、ブルーノ様に実地で当主教育を施すことでしょう。
ダルサミレ様ならば愛する息子の為なら仕方ないと、渋々それを受け入れる筈です。
けれどそのような状態になれば、ナユタ様はダルナン様から不要と見なされるでしょう。
家政のことすらしていないダルサミレ様は、自分の仕事もままならず、ナユタ様の分までは到底手伝えないでしょう。それこそ、私達侍女が代行することになりそうです。
ダルサミレ様の姉、ミゼラ様の子の現大公レテン様ですが、もうすぐレテン様の嫡男レオン様に爵位を譲られます。
レオン様は公爵家の惨状を知っています。大公家もミゼラ様の我が儘でかなり実母ナナ様が苦労しており、ダルナン様に相談していた仲であります。
レオン様が実権を握れば、ダルサミレ様の後ろ楯はなくなり、ダルナン様とブルーノ様も動きやすくなるでしょう。
ただ親の犠牲のせいで、ネルフィス様を筆頭に、レオン様、ブルーノ様、リーネ様も早く大人になってしまいました。
もう大人になってしまったレオン様とネルフィス様は仕方ないですが、リーネ様は8才でブルーノ様は11才です。
二人は子供時代を子供として過ごせず、遊びもせずに大きくなってしまいました。いつもご家族のことを心配しながら。
ブルーノ様はネルフィス様との記憶があり、それを支えに今も頑張っておられます。ダルサミレ様からネルフィス様の浮気の話をされ、リーネ様が本当の妹ではないと言われても、信じることはありませんでした。
リーネ様達のことを、陰ながら邸から見守っておられました。
ただダルサミレ様の侍女達が、お二人が接触しないように監視しており、近づくことは出来なかったのです。
またブルーノ様が母子に会いたいと訴えれば、ダルサミレ様が憤り「やっぱり追い出した方が良いのかしら?」と脅され、それ以上は願うことされ阻まれました。
ブルーノ様は何も出来ないご自分を責め、いつもお二人を心配しております。
これは私の願いなのですが、今後リーネ様はアンシェル様と社交界に出ると思われます。その際にブルーノ様とも接触を図って頂けないでしょうか?
出来れば大人になる前に少しでも子供気分で、守られながら家族と交流する機会を持って欲しいのです。
幸いなことに、ブルーノ様の付き添いは公爵家の執事が付いていくことが多く、ナユタ様が赴くのはダルサミレ様との夜会くらいです。15才まで夜会はありませんので、暫く付き添いは使用人だけになるでしょう。
何故かダルサミレ様達は社交界の噂を聞き流すことが多く、自分達がどう思われているか気にせず行動しています。
ネルフィス様の生家、シベナッシー伯爵家は、ネルフィス様の母で正妻のアンネ様を追い出し、愛人のブルボンネが邸にいることで、かなり評判が悪くなっています。
それでもブルボンネの父侯爵マルト様との鉱山開発の提携をしていることで、伯爵家が維持出来ているのです。
未だアンネ様との離婚がされないのは、マルト様の奥様ラディカ様の反対だけでなく、今さら庶子を妻にするメリットがないからでしょう。
マキシール様は伯爵家に籍が入りましたが、ご本人や両親の言動で婚約者が居ない状態です。お付き合いしている方はおられますが、婚約には繋がらないようですよ。
その理由をネルフィス様のせいにし、ネルフィス様の浮気の話をブルボンネ様と一緒にしたのも、妬みからのようです。
どうかお気をつけ下さい。
私達公爵家の使用人(ダルサミレ様が個別に雇っている使用人を除き)は、ネルフィス様の潔白を信じております。ダルナン様の指示とは言え、積極的に味方出来ず申し訳ありません。
これからの幸福を信じております。
ライラックより」
あえてロマンドの情報をリーネに流したことは書かなかったライラックからの手紙。
きっともう、調べはついていると思って。
読み終えたアンシェルは微笑み、深く息を吐いた。
「これは思いがこもった手紙ね。もう、ここに訪ねて来れば良いのに。私だけで見るのは勿体ないわ。みんなで見ることに致しましょう」
その後にみんなで回し読みし、ネルフィスとリーネは泣いていた。
ネルフィスは息子に「こんな情けない母はきっと恨まれているわ」と思いながら、誰にも気持ちを言えずに抱えていた。
彼が3才になってすぐにネルフィスは使用人棟へ送られ、それからずっと離ればなれだった。
それなのにまだ慕ってくれていたなんて。
リーネとて兄と顔を合わせたことがない。
けれどずっと心配してくれたと知り、とても嬉しくなった。
そして貧しくても母と暮らせたことがどんなに幸せで、兄が1人で寂しかっただろうと思いを馳せた。
ブルーノと会える日を楽しみにする、二人の表情は明るい。
母はもう傍にはいないが、アンシェルは良い思い出があって幸せだなと改めて思うのだった。