8.声
朝、顔を洗うときも、会社にいる間も、眠る前も。ともすれば、たわむれに訪れる佳樹との行為の直前に至るまで、私はあのDMの文章を反芻し続けていた。
寝入りのいい佳樹の背中に向かい合いながら、スマホの画面で何度もその文章を読み解こうとした。けれどそれは、真っ暗な海で黒い貝殻を探して繋ぐような作業で、言葉はするすると指の間をすり抜け、意味は分散して、砂の山になった。
画面の光が、何度も目を刺して痛くなるほどに繰り返し、長い間眺めたその文章。わたしはもう、むしろそれを目を閉じるほど、闇の中にそらんじることができる。
「雪枝千絵様
突然にこのようなご連絡を差し上げますことを、ご容赦ください。
私は、道庭壮介と申します。貴女のご指摘の通り、私が『願望』を転用し、自作と
して出版社に持ち込んだのは、事実です。その後につきましては、もうご存じのこ
とと思います。
そのことに関して、私は貴女に悪い感情を持っておりません。むしろ、感謝をして
おります。といいましても、何の事情も伝えられていない貴女に、突然このような
ことを申し上げますのも、それこそ不躾というものでしょう。」
雪枝千絵。あの頃、あの子との間で、遊び心で名乗った、わたしのもう一つの名前。この名前を知っているのは、間違いない。わたしの記憶をたどる限りでは、今度こそあの子しかいない。メールは、こう続いていた。
「貴女に、お願いしたいことがあります。どうか、私を止めてください。私は自分の
存在を、失おうとしているのです。いいえ、もう既に見失いかけているのかもしれ
ません。ああ、もしかしたら、もうそれでもいいのかもしれません。けれど可能な
ら。可能なら、貴女といつかお会いして、美知恵みちえについて、お話したい
ことがあるのです。勝手なことを申し上げて大変申し訳ありませんが、ご一考願い
ます。
道庭壮介」
「眠れないの?」
気づけば、また天井を見つめていたらしい。横から半身を起こした佳樹に、声をかけられた。
「ちょっとね。佳樹は?」
「喉乾いた。あと、トイレ」
「そう」
あくびをしながら部屋を出ていく佳樹を見送りながら、わたしは壁時計を確認した。午前一時を、少し過ぎたところだった。
明日も仕事がある。早く眠らなければ。けれど目を閉じても、あの控えめでいながら切迫した文章が頭をちらつき、なかなか眠りが訪れない。
あのメールを受け取って以来、自分の生活が、「願望」という作品の持つ虚実の穴に落ち込んでしまったように思えて仕方がない。さっき見たばかりの時計の針が、わたしの中で、あの子、藤枝美知恵ふじえだみちえが書いたあの一文を呼び起こし、それは瞬きのように震えて消えた。
「真夜中は、わたしに二つのものをくれる。浸食されない静寂と、孤独という暴力だ。」
※
メールを受信してから、三週間が経った。わたしがあのメールに目を通してから、十日ほどになる。あのアプリでは、自らが送信したDMに対して、相手が目を通したのかどうか、既読表示をする機能によって判断できる。道庭壮介と名乗る相手が、もしまだわたしの返事を待っているのなら、わたしがあのメールに目を通したことには、もう気づいているはずだ。
道庭壮介からの、新しい連絡はない。諦めたのか、待っているのか、それとも最初から、ただのいたずらの類だったのか。考えたところで、どうしようもない。
ただひとつ明確なのは、道庭は美知恵と、無関係ではないということだ。
そして、あの文章。わたしにはあの文章が、道庭という一人の人間の本心であるように思えてならなかった。そもそも、道庭の主張通り、わたしに話したいことがあるとして、ああした、いたずらに不安定な心情を吐露する文章を付け加えたところで、道庭に何のメリットもない。不明瞭な文意は警戒心を呼び起こし、余計に状況は不利になるだけではないか。もっとも、道庭にそうした判断力があるのかだが。
たらればの仮定の波が、わたしの中で押しては引き、また記憶の砂をさらっていく。
美知恵。あなたはわたしに、何を伝えようとしているの?
目下の相手はこの世にいない美知恵ではなく、生きている道庭という相手であるのに、わたしはその向こうに徐々に美知恵の影を見出していた。
わたしは、フリマサイトで転売されていた、「小説の声」を買った。道庭の連載が掲載されていた雑誌で、けれど道庭の盗作が発覚し、店頭からは完全に姿を消したものだ。皮肉なことに、そのせいでこの雑誌の価値は、一部のマニアの間でそれなりに上昇していた。ご丁寧に、連載を追いかけてセットで販売している人も多い。
道庭壮介による「願望」の、事実上の最後の連載。その文末は、何の偶然だろうか。こんな文章で、終わっていた。
「わたしを見つけてくれたものに、わたしのすべてを預けたい。そうすれば、わたしはまだ、この世界に残存できる。ほら、この痛みはわたしを離れ、世界と掛け算できないわたしを手放して去る。わたしはそれで、この世界のどこにでも行けるんだ。」