7.影
母が急に押しかけてくるのはよくあることで、せっかくの日曜日を潰されたというのに、佳樹はにこにこと応対している。それも母が佳樹を気に入っている理由の一つだろうけれど、一番はわたしたち一家から離れていった、兄の姿を重ねて追いかけているようにも見える。彼女の中の、理想の家族像に向かって。
「本当に、ご迷惑になってない? この子ったら、ホントに何にもできないんですもの。佳樹くんにだって、何かしてやれてるのかどうかって、私、心配で。私、若い頃はこう見えてもそんなことなかったのよ。家事も育児も、この子たちがいなかったら、仕事にだって。ねえ、本当に大丈夫なの?」
「ご心配なく。僕のほうこそ、千尋さんに助けてもらってばかりで」
絶えず笑みを浮かべて話す佳樹の姿には、さすが営業職だなと感心してしまう。顧客のくだをまくような話に慣れている佳樹にとって、母の、半ば自己完結したような長話に付き合うことなど、造作もないことなのだろう。驚くことに、母が帰った後も、佳樹は母の悪口を言ったことは、一度もない。
せいぜい、「今日は長かったね」と、苦笑いしてみせる程度で。
とりたてて、わたしは母と話したいわけではない。母の会話は、もっぱら佳樹との間でだけ、交わされる。わたしは、大人たちの蚊帳の外に置かれた子どものように、とっくに空になったグラスを前に、居心地悪く視線を泳がせている。まるで無理やり連れてこられた、真っ暗い映画館の座席にいるように。そのスクリーンに、わたしの見たいものは、けして映らない。
「そういえばさ」
昼にやってきた母が、夕方になってようやく帰ったのを見送って、佳樹はわたしに声をかけた。
「最近千尋、ずいぶん熱心に何か調べてない? 何かあったの?」
「ああ。たいしたことじゃないんだけど」
今思えば、この時、話してしまえば良かったのかもしれない。けれどそのことを話せば、多かれ少なかれ、わたしの中で眠るあの子のことを話さなければいけない。
興味を持った話には、とことん細部を知りたがる佳樹に向かって、母と会って私自身も消耗した今、その話をするのはなお、はばかられた。
だからわたしは、最低限のことだけを話すことにした。
「道庭壮介って、知ってる?」
「いや。誰?」
「作家なんだけどさ。盗作がバレて、受賞が取り消しになったんだって。この人、プロフィールが謎だらけで、みんな今、この人がどうしてるか、探し回ってるの」
世間一般的なことがらをかいつまんで話すと、「千尋も、意外とミーハーなんだな」と、可笑しそうに佳樹は笑った。
わたしは曖昧に笑ってみせた。何故かこのとき、この話はもう終わらせたいと、強く思った。あれはある種の、予感だったのかもしれない。
「それより、ごめんね。また、お母さんの相手させちゃって」
「いいって。千尋、お義母さんのこと苦手だもんな。まあ、分からないでもないよ。俺の家も、あんな感じだったから」
「え?」と訊き返す間もなく、「さて、風呂でも沸かすか」と、佳樹は奥のスペースに移動していった。
そういえば。わたしはご両親が健在ということ以外、佳樹から家族の話を聞いたことがない。家族関係が上手くいっていないわたしに気を遣ってくれているのだろうと勝手に解釈していたけれど。お湯の溜まるじゃぶじゃぶとした音に呼応するように、わたしの胸にざわめきが立っていった。
じゃあ何故、佳樹は、ああして笑っていられるのだろう。
「あ、千尋も入る?」と言いながら浴室から現れた佳樹は、何事もなかったように涼し気な顔をしていた。
※
久しぶりに調べ物をしているうちに、そういえば昔、画像投稿サイトのアカウントを作って、三日坊主で放置していたことを思い出した。
あの頃は一人暮らしで、大学生活でも友達に恵まれず、ネット上でもいい。どこかで人との接点がほしい。そんな気持ちからだった。
とはいえ、アカウントを作ったのものの、平凡な学生のわたしには、特にアップするべきことが見つからなかった。確か無難に、花の写真とか、ドーナツショップの詰め合わせの画像とか、他愛のない写真を数点アップしたきりだった。佳樹と出会ったのは、それから少ししてからだった。
それこそ、気まぐれだった。使いもしない幽霊アカウントを削除して、なんならアプリもアンストしようと思ったのだ。
久しぶりに見る、自分のページ。本名の「Tihiro」というアカウント名と、あの子と一度だけ行った、ひまわり畑を背景にしたわたしの写真。もちろん、顔はモザイク処理をほどこしてある。
退会手続きに入ろうとしたわたしは、ふとアイコンの横に通知の印が灯っているのに気がついた。どうせ、アプリからの「オススメ」の類だろう。
いちおうタップしてみると案の定その通りで、けれどその中に一通だけ、異質な通知が混じっていた。
『K.Tiharuさんから、DMが届いています』
わたしは、声にならない悲鳴を上げた。
DMの日付けはごく最近で、それは紛れもなく、あの子が使っていた名前だった。