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5.白

「珍しいね、千尋が雑誌なんか読んでるのって。何? 小説?」


 手元に集中していた私は、いきなり背後から声をかけられてびくりと肩を震わせた。やましいことなんて、何もないのに。


「おかえり。今日は、早かったね」


 取り繕ったような笑顔になってしまったはずだけれど、佳樹は気づかなかった様子で、背広をハンガーに掛けている。背中からは、口には出さないけれど、隠し切れない疲労の色が滲んでいる。


「ご飯、できてるけど。どうする?」


「あー、ごめん。まだいいかも。ちょっと最近、食欲なくてさ」


「え、大丈夫なの? 病院とか、行ったほうがいいんじゃ」


「大丈夫だって。得意先で、変なもんばっかり食わされたからだろ。もう当分は、そんなこともなさそうだし」


 背広とシャツを脱いだ佳樹は、リビングではなく、お風呂場に向かった。ほのかに引き締まった背中を見送り、私はそっとため息をつく。


 今になってみても、何故私があんなことをしたのか、分からない。


 例の小説が掲載されていた「小説の声」という雑誌の版元。そこに私は、偽名でメールを送信した。「御社が掲載されている『願望』という作品について、贋作の疑いがあるように思います。出所を調査されることをお勧めいたします」と。


 何度考えてみても、いや、考えるたびに腑に落ちなかったのだ。掲載されている分の作品は、何度も読み返した。私の余計な勘繰りである証拠を、見つけ出そうとした。けれどあれは、過去の遺作が輝かしく蘇ったというより、埋葬された死者の呼び声のような、不穏な残響音を響かせるばかりで、その共鳴は絶えず私を襲った。


 私は、知っている。彼女の身内に彼女の作品に対する理解者は一人もおらず、いつもゴミ扱いされていた。からかいやいたずらの的になり、データを削除されたり、プロットを廃棄されないよう心を砕いていた彼女の苦労を。彼女は家族の中にいながら、決定的に異分子だった。


 不意にラインの着信がなり、私は疲れた目を擦りながらスマホに手を伸ばす。着信は、母からだった。


「はい」


「もしもし。あんた、連絡もよこさんで、今どうしとるとね?」


「別に。いつも通りだよ」


「ならいいけど。佳樹さんとは、どうなっとるとね? そろそろ結婚の話でも、出とらんとね? 泰樹やすきは全然家に寄りつかんし、最近は連絡も取れんとよ。もうお母さん、千尋たちのことだけが楽しみで。早く孫の顔くらい、見せてぇな。式はいつにするんね。お金はちゃんと、用意しとるんね」


「まあ、機会があればね。うちらもまだ、いろいろあるから」


 泰樹が家に寄りつかないのは、子の人生を自分の延長線上にあるかのように信じてやまない母の、この過干渉のせいだろうと思う。


 幼い頃、早くから父が不在だった我が家での、母のいいつけは、常に私たちの願望とイコールだった。母の望みは、私たちの望み。自我が弱く、幼い頃は、それでも幸せだったように思う。けれど、私たち兄妹に対してそれが叶わない年齢に差し掛かると、ある日逆上した母は「せっかく産んだわたしを置いていくな」と叫んで、家中のものを壊し始めた。母自身の、お気に入りのアンティークカップも、家族写真も、兄が大事にしていた、水泳部のトロフィーも、粉々になるか、大きく歪んでしまった。


 そんな発作が、しばらく続き、いつしか見慣れた光景になっていった。


 当時、私は中学二年生、兄の泰樹は、高校三年生になっていた。それからしばらくして、泰樹は大学受験を機に寮に移り住み、それ以降、医療機器メーカーの仕事に就いたという報告を除き、妹の私にすら、連絡はない。


 あるいは、私もそうして母と距離を置けば良かったのかもしれない。そう思ったことは、何度もある。けれど実際は、それから十何年もそこから抜け出せない私を嘲る思いが湧きだし、私は通話の合間に、そっと唇を噛む。


「お母さんは、元気なんでしょ? 佳樹帰ってきてるし、何かあったら、また連絡するから」


 強引に話を切り上げ、まだ何か言いたそうな母の気配を無視し、通話をキャンセルした。何気ない、大したことのないやりとりのはずなのに、手のひらにはうっすらと汗がにじんでいた。


「自分だけ幸せになるなんて」「わたしの代わりに、あなたはわたしの幸せを叶えてみせて」「わたしの願いを、あなたが叶えて」。


 極論だというのは、分かっている。けれどあの日から、私は母の言動に、逐一そうした願望の棘を感じずには、いられなくなってしまった。


 だからこそ、私は、私の幸せを掴みたいと思う。たとえその足元が、ほんの少しだけ、暗いものであるとしても。


 浴室から、勢いよくシャワーを被る音が聞こえる。一応温めておいたけれど、今日佳樹が夕飯に手を付けることは、ないかもしれない。


 リサイクルショップで買った、二人掛けの紺のソファーに身を落とす。


 数ページめくったくだんの小説には、こんなことが書かれてあった。


「止めることができない流れを、私はもう裏切ることができなかった。私の中で、感情はいつまでも白色を保っている。誰にも汚されない、そこだけが私の聖域だった」

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