4.残響
『願望』
その小説のタイトルだけを見れば、ありふれたものだった。けれど、わたしはそこに、かすかな響きを感じ取っていた。それは、湖沼に投げ込まれた礫つぶてのような頼りない響きだったけれど、私を絡めとるのには十分だった。
少しだけ浅くなった呼吸を感じながら、私はその最初の一文に目を通した。
『箱の中では、息ができない。だから私は、彼を愛したのだと思う。身をかがめて息をひそめるとき、息と一緒に体温を、そして私を、葬り眠った。幸せは、壊されることが前提だ。だから私は、いつまでも幸せでいることができた。』
背筋に、冷たいものがはしった。そこに記載されていた文章を、以前、私は確かに目にしていた。
四年前。彼女が自ら命を絶った、その前の月。突然送られてきた一通のメールと、添付データ。本文には一言、「あなたにだけ、預けます。」とだけ、書かれてあった。
その頃私は、彼女から距離を置こうと決め、それを徐々に実行に移していた頃だった。だからその日は、今思い出そうとしても思い出せないような通り一遍の返信をした。削除こそしなかったものの、フォルダ分けだけはして、その後数日、その添付ファイルを、メールごと放置していたと思う。
けれどその週末、受診ボックスを整理している際にふと気になって、彼女からのメールを開いた。ワードのデータで、添付ファイルの名は、「願望」。容量を見ると、それなりの量であることがうかがえた。
口に出すよりも言葉を打つことを得手とした彼女の、それはまたひとつ重なった、私へのメッセージ。いつものように、私はそう受け取った。その頃彼女の書く言葉は半ば空っぽの空に放流されていて、私は惰性でそこに網を投げ込んでいた。親切だとか、友情だとか、そんな積極的な理由はなかった。ただ、退屈で、だから一時の間だけ、期待していただけだったのだ。
潮時かもしれない。手を取るたびに転落していく彼女のことが、あのときまた強く、重たく感じられた。これで、最後にしよう。どうせまた、いつもの読みなれた文章だ。最後まで流し読みすれば、最低限話を合わせることはできるだろう。
ため息をついてファイルを開いた。やはり、中身は小説だった。そしてそこには、今開いている雑誌に掲載されている文章と、おそらくはほぼ同一の文章が並んでいた。
(どうして・・・・・・)
走るようにして、著者名に目をやる。「道庭壮介みちばそうすけ」。
まったく覚えのない名前だった。これは、いったい誰だ。
真っ先に思い至ったのは、彼女の家族が彼女の亡き後、この作品を見つけ、遺作として公募に出したのではないかという想像だった。件の「道庭壮介」は、もちろんペンネームだろう。彼女の死去の経緯を探られたくないがために、残された人が氏名、性別までを変更して、このようなかたちで原稿を世に送り出した。そういう道筋だ。
(でも、そんなことが・・・・・・)
もちろん、死者の、それも自ら命を絶つ者のとる行動など、私には予想できない。
けれどそれまで、生前の彼女の行動を思うと、そこにひとつの疑念が生じる。
「あなたにだけ、預けます。」
そのとき、思い出した。広大な海で人を惑わすセイレーンの歌のように網膜に残ったこの一文を、私は忘れることができなかったのだと。
もともと彼女は、あまりに不器用すぎた。人としても、この世界で生きることに対しても。だからこそ、混じりけのない言葉しか書けなかったし、書かなかった。そこにはただ、いつも小説という名の、真実ばかりが書いてあった。
その彼女の、その最期の言葉に従えば、この文章に触れているのは、私だけのはずだった。秘めごとにしては近すぎて震えた、あの情景と結末を。
気づけば、私は強くその雑誌を握りしめていた。冊子自体は薄いわけではないけれど、それでも表紙の部分は大きく皺がよってしまったし、よく見ると上部に小さな亀裂まで入っていた。
もちろん、それが私のせいだという証拠はない。けれど、先ほどから呆然と力を込めて握りしめていたのも、私だ。そして何より、この文章。
「願望」
このたった二文字が、絡みつく黒髪のような質感で、私を掴んで離さない。
もしかすると自分は、大変なものに、関わってしまうんじゃないか。
いや、そんなことはない。ただの空想だ。言ってしまえば、私の怖いもの見たさだ。だからこそ、そんな不安を感じてみせるのだ。
仮にここに、彼女の遺した文章があったとして。現実的にありそうな経緯は、今思いつく以上に、おそらくいくらでもある。例えば彼女がデータを完全に削除さえしなければ、誰かがそれを見つけ出す機会だって、十分にあるだろうから。
逡巡の時間は、けれどおそらくは一瞬だった。
始めから、決まっていたことなのかもしれない。
私は、項をめくる手を止めた。複数設置された無人精算機の横で、二人の店員が他愛のないおしゃべりに興じているのを見て、苦笑した。
彼らを横目に、自分でバーコードをスキャンし、現金を吞み込ませる。
ジャラジャラと吐き出された硬貨が、いつにもまして、ひどく無機質な音を放っていた。