表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/26

4.残響

『願望』


 その小説のタイトルだけを見れば、ありふれたものだった。けれど、わたしはそこに、かすかな響きを感じ取っていた。それは、湖沼(こしょう)に投げ込まれた礫つぶてのような頼りない響きだったけれど、私を絡めとるのには十分だった。


 少しだけ浅くなった呼吸を感じながら、私はその最初の一文に目を通した。


『箱の中では、息ができない。だから私は、彼を愛したのだと思う。身をかがめて息をひそめるとき、息と一緒に体温を、そして私を、葬り眠った。幸せは、壊されることが前提だ。だから私は、いつまでも幸せでいることができた。』


 背筋に、冷たいものがはしった。そこに記載されていた文章を、以前、私は確かに目にしていた。


 四年前。彼女が自ら命を絶った、その前の月。突然送られてきた一通のメールと、添付データ。本文には一言、「あなたにだけ、預けます。」とだけ、書かれてあった。


 その頃私は、彼女から距離を置こうと決め、それを徐々に実行に移していた頃だった。だからその日は、今思い出そうとしても思い出せないような通り一遍の返信をした。削除こそしなかったものの、フォルダ分けだけはして、その後数日、その添付ファイルを、メールごと放置していたと思う。


 けれどその週末、受診ボックスを整理している際にふと気になって、彼女からのメールを開いた。ワードのデータで、添付ファイルの名は、「願望」。容量を見ると、それなりの量であることがうかがえた。


 口に出すよりも言葉を打つことを得手とした彼女の、それはまたひとつ重なった、私へのメッセージ。いつものように、私はそう受け取った。その頃彼女の書く言葉は半ば空っぽの空に放流されていて、私は惰性でそこに網を投げ込んでいた。親切だとか、友情だとか、そんな積極的な理由はなかった。ただ、退屈で、だから一時の間だけ、期待していただけだったのだ。


 潮時かもしれない。手を取るたびに転落していく彼女のことが、あのときまた強く、重たく感じられた。これで、最後にしよう。どうせまた、いつもの読みなれた文章だ。最後まで流し読みすれば、最低限話を合わせることはできるだろう。


 ため息をついてファイルを開いた。やはり、中身は小説だった。そしてそこには、今開いている雑誌に掲載されている文章と、おそらくはほぼ同一の文章が並んでいた。


(どうして・・・・・・)


 走るようにして、著者名に目をやる。「道庭壮介みちばそうすけ」。


 まったく覚えのない名前だった。これは、いったい誰だ。


 真っ先に思い至ったのは、彼女の家族が彼女の亡き後、この作品を見つけ、遺作として公募に出したのではないかという想像だった。件の「道庭壮介」は、もちろんペンネームだろう。彼女の死去の経緯を探られたくないがために、残された人が氏名、性別までを変更して、このようなかたちで原稿を世に送り出した。そういう道筋だ。


(でも、そんなことが・・・・・・)


 もちろん、死者の、それも自ら命を絶つ者のとる行動など、私には予想できない。


けれどそれまで、生前の彼女の行動を思うと、そこにひとつの疑念が生じる。


「あなたにだけ、預けます。」


 そのとき、思い出した。広大な海で人を惑わすセイレーンの歌のように網膜に残ったこの一文を、私は忘れることができなかったのだと。


 もともと彼女は、あまりに不器用すぎた。人としても、この世界で生きることに対しても。だからこそ、混じりけのない言葉しか書けなかったし、書かなかった。そこにはただ、いつも小説という名の、真実ばかりが書いてあった。


 その彼女の、その最期の言葉に従えば、この文章に触れているのは、私だけのはずだった。秘めごとにしては近すぎて震えた、あの情景と結末を。


 気づけば、私は強くその雑誌を握りしめていた。冊子自体は薄いわけではないけれど、それでも表紙の部分は大きく皺がよってしまったし、よく見ると上部に小さな亀裂まで入っていた。


 もちろん、それが私のせいだという証拠はない。けれど、先ほどから呆然と力を込めて握りしめていたのも、私だ。そして何より、この文章。


「願望」


 このたった二文字が、絡みつく黒髪のような質感で、私を掴んで離さない。


 もしかすると自分は、大変なものに、関わってしまうんじゃないか。


 いや、そんなことはない。ただの空想だ。言ってしまえば、私の怖いもの見たさだ。だからこそ、そんな不安を感じてみせるのだ。


 仮にここに、彼女の遺した文章があったとして。現実的にありそうな経緯は、今思いつく以上に、おそらくいくらでもある。例えば彼女がデータを完全に削除さえしなければ、誰かがそれを見つけ出す機会だって、十分にあるだろうから。


 逡巡の時間は、けれどおそらくは一瞬だった。


 始めから、決まっていたことなのかもしれない。


 私は、項をめくる手を止めた。複数設置された無人精算機の横で、二人の店員が他愛のないおしゃべりに興じているのを見て、苦笑した。


 彼らを横目に、自分でバーコードをスキャンし、現金を吞み込ませる。


 ジャラジャラと吐き出された硬貨が、いつにもまして、ひどく無機質な音を放っていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ