2.落葉
大学二年生から付き合いはじめ、卒業とともに同棲を始めた部屋は、すっかり生活感にあふれている。かといって、佳樹は私よりも綺麗好きなほうなので、部屋の中が脱ぎっぱなしの服で散らかっているというわけでもなく、小物も決まった場所に収まっていて、この部屋で探し物をしたという記憶はあまりない。
「しかし、久々だなー。こんなゆっくりできるの」
「そうだね」
ハムを刻む私の横で、ボウルの中のゆでたじゃがいもを潰しながら、佳樹がつぶやいた。包丁から目を逸らさず、私も相槌を打つ。
食品メーカーで営業をしている佳樹と、製菓メーカーの広報部に配属されている私。私はそこまでのことはないけれど、佳樹の帰りは基本的に遅く、土曜出勤の日もあり、日曜日は疲れて眠っていることが多い。正直、あまり良い会社ではないのではないかと思うこともあるけれど、口には出さないでいる。
新卒二年目の段階で異動願いを出すことは、別に珍しいことでもないのだろうけど、そこはむしろ佳樹のほうが意地になってそれを拒んでいるふしがある。根が負けず嫌いなのだ。月曜日の早い時間に眠そうに部屋を出ていく姿を気の毒に思うこともあるけれど、私にはどうすることもできない。
開けているキッチンの窓から不意に強い風が入り、リビングのパキラの葉を揺らした。色づいた緑色の葉に混じった、茶色い葉っぱが一枚落ちた。
「こんなもんでいい?」
そう言って佳樹が差しだしたボウルの中で、じゃがいもはほとんどペースト状になっていて、「ありがとう」とそれを受け取る。調味料を取ろうとしたら、すでに目の前にコショウとマヨネーズが置いてあった。
「佳樹の味でもいいんだよ?」
「いいよ、俺がやるとべちゃべちゃになっちゃうし。千尋の味のほうが、俺は好きだし」
濃い味が好きな佳樹は、ポテトサラダにウスターソースを入れていたこともあって、茶色いそれを初めて見たときは驚いた。味がないからというのが、その理由だった。
私の作るポテトサラダといっても、いたって普通のものだと思うのだけれど、なぜか佳樹には気に入られている。「人に作ってもらうのは、美味しいもんね」と前に言ったら、「千尋だからだよ」と真顔で訂正されて、ちょっと照れた。
刻んだハムを投入して、コショウをまぶし、ヘラでマヨネーズと絡める。ボウルは佳樹がしっかりと固定してくれているので、危なげがない。黄金色のいもとピンクのハム、刻んだ人参のオレンジ色が、どんどん混ざっていく。
ほどなく、湯気の立つポテトサラダが完成した。
ひと段落がつくと、そのまま一日の一区切りがついた気になる。振り向いて壁時計を見れば、針は午後四時過ぎを指していた。
そのまま洗い物にとりかかろうとすると、右から左に回り込んだ佳樹が先に、蛇口の水を流し始めた。
「いいのに」
「いいって。千尋、冷え性じゃん。あかぎれできたら嫌でしょ」
「今の時期はそこまで、関係ない気がするけど」
「いいから。俺がいる日くらい、休めとけって」
もともと几帳面で、実家でも積極的に家事に関わるようしつけられていたという佳樹の手つきは、実家を出て二年目の私よりも手慣れている。
念のため手にクリームを塗りながら、私はその手をぼうっと見ていた。
通りに面した窓から入る、日差しが温かな影を作る。穏やかな日だった。
「ねえ」
不意に、佳樹が口を開く。その声色に、私はそっと身構える。
「この後、しない?」
「・・・・・・うん、いいよ」
本当は、そういう気分ではなかった。けれど、断ることもできなかった。
あの日がそうだった。何の悪意もなく、彼の要求をかわした瞬間、彼は私の頬を打った。その頬には、溢れたように涙がつたっていた。お互いに、何も言わなかった。
私が知らない場所で抱え込んだ佳樹の何かが、偶然あの瞬間に、沸点を迎えた。そう、私は自分を納得させている。
頬の熱を置き去りにしたまま、お互いに呆然として。
我に返った佳樹が土下座をして謝ったあのとき以来。その後無理やりにされるような雰囲気にすら、なったことはない。そもそも、最初からそれが原因だったという気が、私にはしないのだ。
嫌と言えば、それで終わる。そこまで私たちの関係は、歪じゃない。けれど身体を重ね合うその瞬間にも、ふとあの手を思い出すことがある。
その記憶を捨てられないままに、わたしはあの手が降ってくる瞬間を、どこかで予感している。ふとした沈黙の中に。何気ない、すれ違いの中に。
去年。付近で通り魔事件が起き、一時犯人は逃走していた。数日後に犯人が逮捕されるまで、警戒を告げるアナウンスが、町のどこかしらで流れていた。そんな感覚を、ふと覚える自分がいる。
日常は、平穏だ。私も佳樹も、互いを大事にしていると思う。
けれどその「大事」がどういう種類のものなのか、私は時々分からなくなることがある。