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23.千尋

 それは小さくて簡素だが、未だ大切に想う人がいることを感じさせる、清潔な墓石だった。花立には、少し首を垂れた百合の花が差してあった。


 誰が手向けたのかは、言われずとも分かった。わたしは「藤枝美知恵」の名が彫られたその石に、そっと手を添えた。


 この場所のことを知ってから、三カ月近くが経っていた。美知恵が、永遠の眠りについている、この場所。迷った末、私はここに行くことを決めた。


 柔らかな風に乗って、どこからか線香の香りが届く。


(今さら、ごめんね。それとも、待っててくれた?)


 亡き人が答える代わりに、穏やかな太陽の光で温まった石が、強張っていた私の手を少しずつ温めていく。


 季節外れのヒマワリは見つからなかったので、迷った末、ガーベラの花束を供えた。一通りの墓参りの所作を済ませた後、青空へと昇っていく線香の煙を仰いだ。


(あなたは一体、何を伝えようとしたの・・・・・・?)


 声に出さずに問いかけてみても、返ってくるのは向かい合う者もない、本物の沈黙だけ。それを埋めるように、墓地を囲む木々の間から、スズメの鳴き声が止まない。 


 少し離れた場所で、墓参者であろう妙齢の女性が、同じく花束を手向けているのが見えた。


 あんなに笑い合ったのに、私は美知恵のことを、何も知らなかった。三浦さんのように、美知恵の真意を汲み取れないのが、その証拠だ。それが例え推測に過ぎなくても、美知恵への確かな愛情がなければ、あんな発想は浮かばない。


 Can I Fly? Maybe…….


 まだ、飛び立つことができるのかもしれない。


 確かに、一連の出来事を通して、私の中の何かが変わり、終わりを告げた。今、私は新しい町に引っ越し、来月からは新しい場所に勤めることになる。三浦さんも、ここからも、随分と遠くなる。


(私ね。変わっていくみたい。美知恵にも、三浦さんにも、いっぱい助けられて)


 だから、例え私だけの独りよがりな答えだと、後ろ指を差されてもいい。私は美知恵の思いを、いや、美知恵からのメッセージを、懸命に手繰ろうとしていた。


 先ほどの女性が立ちあがったと同時に、手桶が倒れた。驚いたのか、スズメたちが一斉に木々から飛び立つ。小さな命たちが、空を、太陽を背負い、羽ばたいていく。



「作家になれたら、いいなあって思うんです」


 美知恵は恥ずかしそうにうつむいたまま、並んで歩く道で言った。あれは、私の古着屋と、美知恵の本屋めぐりの帰りだった。昼前に待ち合わせて、あっという間に夕方になっていた。あの頃、私たちは弾んで転がる、ピカピカのボールのようだった。


「まあ、そうだろうね。こうして、書いてるんだし。それだけでも、すごいよ。っていうか、美知恵ならなれるんじゃない? あの話、何だかんだで好きだもん、私」


 自分の直観だけを頼りに楽観的だった私に対し、美知恵は気弱そうに言った。


「でも、実際になれるのなんて、ほんとに一握りだし。それにもし受賞しても、その後何も書けなくて、そのまま終わっちゃう人が大勢いるっていうし・・・・・・」


「もう。さっき私に、夢見るだけでも価値がある、なんて言ったのは誰よ」


「・・・・・・私ですけど」


 本当に、自信がないのだろう。その時点で膨大な時間をかけて書かれた「願望」を、けれど美知恵は、私以外の誰にも、どこにも公開する意思はないと言った。


「こんな暗い話、受けないだろうし。けど、だからと言って、このお話だけは、書き方を変えたり、結末を変えたりはしたくないんです。だから」


 それが、いつも美知恵が、口癖のようにいう理由だった。


 夢を語るのに、理由はいるのだろうか。私はそっと、美知恵の肩に手を置いた。


「どんなかたちでも、あれは美知恵にしか書けないんだよ。だから、自信とかそんなんじゃなくて、自分のしたいようにしないと後悔すると思う。私、そんな美知恵の姿、見たくないよ」


 なんて不器用で、直情的な言葉だったのだろう。幼かったからこそ言えた、無責任な鼓舞。けれどこちらを向いた美知恵は、泣き笑いのような表情でこくんと頷いた。


「先輩」


「ん?」


「どうするかは分からないけど、書いてみせます。私、このお話を、最後まで。その時は、一番大事な人にこのお話を読んでもらいます」 


「ホントっ!?」


「本当に、です」


「じゃあ、約束の指切り」


 指切りなんて、いつ以来だろう。あの日絡めた美知恵の右手は、夕焼けに包まれて温かかった。まるで私に送られてきた「願望」に描かれた、主人公を包む最後の夕日のように。



 その時、私の脳裏に、「Can I Fly? Maybe…….」に続いて、ささやきのように言葉が浮かんだ。それは不意に私の心が掴んだ、三浦の言う「もう一つの意味」だった。 


 「私が飛べなくても、あなたはたぶん、私を・・・・・・」


 「きっと」を言うには、たぶんあの子はまだ、脆すぎた。


 文脈を無視した、都合のいい解釈かもしれない。けれど私にとってそれは、誰かに許されるためのものでも、誰かに対する憐憫の情に浸るためのものでもない。美知恵から私に宛てられた、ただ一つだけのメッセージだった。


 それが正解なのかは、分からない。この先も、分かることはないだろう。


 けれど私は、ようやく見つけたこの言葉を、ずっと胸に抱き続ける。変わっていく私を、私はこの目で見届けていこう。どこに行っても。何をしていても。 


 そうすれば、美知恵はあの日々のように、微笑んでいてくれるだろうか。それとも、私の独りよがりな間違いを、清く笑ってくれるのだろうか。


 立ち上がった時、一筋の風がそよいだ。柔らかな木漏れ日の香りが、季節の移り変わりを告げていた。

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