22.ヒマワリ
「バスの運転手なんて、カッコいいじゃないですか! 千尋先輩、似合ってますよ」
カフェテラスのテーブルの、向こう側。鮮やかな雑踏を背にして、美知恵が小さい子どもが驚いたように、声を上げた。
「そうかなー。でもさ、そうは言っても、現実は厳しいからさ。たぶん、普通のOLやってるよ」
そんなことを言いながら、まだ「現実」が何かすら、分かっていなかった。それなのに、少なくともその時の私は、今それが、目の前にあると信じて疑わなかった。
幼かった。あまりに、幼かった。
あくまで弱気な私に対し、「夢見るだけでも価値があるんですよ」と、美知恵は言った。普段大人しい美知恵の、めずらしく熱い言葉遣いだった。
私は、照れくさくなって笑った。
十代の終わりに自ら「青春」と口走ってしまったかのような青臭さがして、咄嗟に話題を変えようとした。けれど、美知恵に先に捕まってしまった。
「きっかけは、何だったんですか?」と、あんなに目を輝かせて訊かれたら、面はゆいながらも、答えるしかなかった。
「これっていうわけじゃないんだけど。昔、兄がよくバスに乗せてくれてね。そのとき、窓から外を見てるのが好きだったの。たぶん、そんなのがきっかけかな」
あれは決まって、家に居場所がなかった時。まだ幼さが残っていた頃の兄は、それでも本当に幼い妹を連れて、大人たちから、そして家から離れた。最後は帰るしかない、短い道のり。
もちろん、毎回ではない。私たちに与えられた自由に使えるお金は、とても少なかったから。静かに泣いて耐えるしかない日のほうが、圧倒的に多かった。
二三カ月に一度あるかないかの、兄を見上げるその時間が、気恥ずかしいようでいて、けれど私の密かな楽しみだった。その時間は、兄が本格的に思春期に入り、私が思春期の訪れに差し掛かった頃に終わりを迎えた。
その話をすると、美知恵はほんの少しだけ、寂しそうな顔をした。あの時は、同情されたのかと思った。けれど今思えば、美知恵は、羨ましかったのかもしれない。幼い頃に、自分を外に連れ出してくれる、小さくて大きな存在が。それは彼女の幼少期に、最後まで現れなかった。
「それにしてもさ、美知恵の小説って、分かるようで分からないところが多いよね。特に、これ」
その時奇しくも私が指さしたのは、あの一文だった。
「『幸せは、壊されることが前提だ。だから私は、いつまでも幸せでいることができた』って。難しいよ、これ」
何しろ、一晩考えても真意を探り当てられなかったのだ。私は少し、拗ねて唇を尖らせていた。美知恵は、くすくす笑っていた。
「けっこう、そのまんまの意味ですよ?」
「それが、分からないっていうの。でもなんか、忘れられないフレーズだね。なんか、途中なのに、最終回って感じがした」
あれは、太陽の陰りだったのだろうか。美知恵の表情にまた一瞬、影が落ちた。一呼吸置いて、美知恵が呟くように言った。
「人が幸せになれる条件って、あると思います?」
「え?」
「あ、何でもないんです。忘れてください」
そう言って、美知恵はいつもの人懐こい笑みを浮かべた。私はもちろん違和感を抱いたけれど、気軽に踏み込んではいけない気がして、それはちょうど吹いた強い風と一緒に、吹き飛んでいった。
※
あの日は、快晴だった。季節外れのオレンジ色交じりの、秋のヒマワリ畑が広がっていた。目の前の一本道を、どこまでも、どこまでも行ける気がするような、そこは、そんな場所だった。
私がその光景を前に、嬉々として道を行くのに対し、美知恵はまるで一本一本の花弁を愛でるように、ゆっくり、とてもゆっくりと歩を進めていた。私たちは何度か離れたけれど、毎回私が、美知恵から少し離れた位置まで戻ってきた。そうして、声をかけるわけでもなく、彼女を見つめていた。徐々に太陽が陰っていく頃、何故かほんの一瞬、まるで何かを見送っているような気がした。
「千尋先輩、写真、撮っていいですか?」
花弁に触れていた美知恵が、不意にこちらを振り向いて言った。
「いいけど。誰もいないよ?」
二人並んで、ということだと思ったのだ。けれど、美知恵は小さく首を振った。
「千尋先輩の、です。記念にしたくて」
「え、私? 美知恵は?」
「私は、いいんです。写真撮られるの、好きじゃなくて」
「じゃあ、私だって嫌だよ。恥ずかしいじゃん」
断ったものの、最終的には美知恵の押しに負けて、一枚だけという条件で、撮影を許した。美知恵は、その日一番の満面の笑みを浮かべた。
あ、ヒマワリが咲いたと、私は思わず微笑んだ。
その瞬間、軽やかに、シャッター音が鳴った。
※
目が覚めると、バスは終点の一つ前のバス停に止まっていた。時間調整のためか、扉は開けたままで、動き出す気配はない。
夢の記憶が真新しい中、記憶の糸を少しずつ編み上げていく。思えば「Tihiro」という名前と並んで、三浦が私を見つけるきっかけになった唯一の手掛かり。それがあの時美知恵が撮ったあの画像で、私のアイコンの元画像だった。
今となっては、知る由もない。けれど三浦は、ほんの一瞬でも、どこかであの写真を目にしたのではないだろうか。もし、彼女を失った悲しみと一緒にその記憶が忘却されたとして、ほんの一時だけ、時が彼に味方したとするならば。
それはおそらく、彼にとっても無意識の行動だったのではないだろうか。
それともそれは、既に亡き美知恵の意志だったとでも、言えばいいのだろうか。
答えは、まるで「願望」のあの文章のように、未だ姿を見せない。これからも、きっと、それは、明らかになることはないのだろう。
美知恵はもう、ここにはいないのだから。
発車を告げる運転手の声に続いてブザーが鳴り、バスはゆっくりと動き出した。