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21.行先

「本当に、ごめんなさい」


 互いに、長い事情聴取と治療を受け、私たちが美知恵と過ごしたあの店で再会したのは、あれから七日後だった。こちらに、というより、あらゆる客に無関心なマスターの態度が、今はありがたかった。


「せっかくのお会いできるなら、もう少しマシな顔でお会いしたかったですね」と笑う三浦の鼻には、術後のギブスが痛々しく装着されたままだった。佳樹に背後から殴り倒された際、顔からコンクリートに叩きつけられ、鼻の骨を折ってしまったのだ。


 あの時、三浦は、私ではなく、美知恵の名を叫んだ。乱闘になった三浦と佳樹に割って入ったのは、警察だった。争いごとが起こっていると通報があったらしい。


 佳樹がすべてを話したため、私たちの事情聴取もひどく長引いた。ただその結果、三浦は罪に問われることはなく、佳樹のみ、傷害の罪で逮捕された。


 ただ、その代償は大きかった。皮肉なことに、佳樹の言った通りになった。この事件は、三浦の勤める銀行にも瞬く間に知れ渡った。そして、尾ひれのついた噂が瞬く間に職場に蔓延り、三浦の居場所はなくなった。職場の混乱を避けるため、三浦は退職願を出したという。この時代だ。これから彼に、どれだけの困難が降りかかるのだろう。ただ謝ることしかできない私に、三浦は言った。


「あなたが連れられて行くとき、私には美知恵が重なって見えました。もう二度と、美知恵を失いたくない。がむしゃらでした。だから、あれは私が個人的な理由で動いただけです。あなたが気に病む必要はない」


 少しの間、沈黙が流れた。三浦が口を開くのと、私が「この町を、出ようと思います」と告げたのは、同時だった。そしてそのときは、けして母にだけは知らせないでいようと決めていた。


「そうですね。おそらく、その方がいい。どんなかたちであれ、被害者に負担が生じるのだけは、僕は我慢がなりませんが」


 私は、首を振った。


「佳樹のこともありますけど、今が私の、決別の時だと思うんです。私は、たぶんいろいろなものに捕まっていた。今、そのことに気が付けた気がするんです」


 三浦は、ただ黙ってこちらを見ていた。穏やかで、澄んだ瞳だった。だからだろう。私は知らず、こんな問いを発していた。


「幸せになれる、なれないの境界線って、どこにあるんでしょうね」


 美知恵が残した、「Maybe…….」の一語を思い出した。「多分・・・・・・」。書かれなかった、その後の言葉。その美知恵を冒涜した佳樹が、あの時一瞬見せた涙さえ、私はそのとき思い浮かべていた。


「明確な線引きは、できないのではないでしょうか」


 言葉の間に浮かんだ空間を引き取るように、三浦は続けた。


「彼にしてもそうなのかもしれません。一歩間違えば、彼は僕であり、僕は彼になっていたのかもしれない。けれど、彼の行いは、けして許されるものではありません」


「一度壊れたものは、元には戻らないのでしょうか」


 問いではなく、それはむしろ呟きに近かった。あるいは、自分自身への問いかけ。


 それすらも、三浦は引き取った。 


「確かに、そうかもしれません。けれど、そうじゃないのかもしれない。確実なことは、誰にも言えないのだと思います。けれど、だからこそ。僕たちはまだ、飛び立つことができるのかもしれない」


「『Can I Fly? Maybe…….』・・・・・・」


 たとえ、あのような手段でも。彼女のその手の中に、少しでも幸せの欠片は、残っていたのか。けれど、もしそうであるなら。


 誰に、何と言われてもいい。私は美知恵に、生きていてほしかった。


 その思いに気づいたように、三浦が言った。


「これは、私が受け取った美知恵からのメッセージです。川崎さんには、また違う意味があったのかもしれません」


 何を言われたか分からないでいると、三浦は続けて言った。


「皮肉なことに、今回の件でじっくりと考える時間ができましてね。美知恵が生前、言っていたんです。もう一度、あの人とヒマワリ畑に行きたい。そういう人がいると。もちろん半分冗談で嫉妬してみせると、笑われましたよ。(たける)さん、その人、女の人だよって。その人に出会ってから、私はヒマワリが好きになったって。何故だか分かるかって」


 ヒマワリ。美知恵と長距離バスに乗って一度だけ行った、あの場所。晩秋に咲く特別なヒマワリが、まだ先を知らない私たちの視界を、鮮やかな黄色で彩っていた。


 あのときこちらにスマホを向ける美知恵は、子どものようにはしゃいでいた。そんな時間が、はたしてそれまで彼女に、どれだけあったのだろう。


 そんな痛みにも似た思いを抱きながら、「綺麗だったからですか?」と、思いつくままに訊いた。「それもあったそうですが」と首肯して、三浦は続けた。


「ヒマワリの花言葉は、『憧れ』だから。それがもうひとつの、答えでした」


「それは・・・・・・」


 私のこと、なのか。美知恵の中での私は、そんな存在であり続けていたのか。


「美知恵は手紙の中で、よく謎かけをしてきましたよ。いつもそうでした。まるで子どものようで、そんな彼女も愛おしかった。彼女の問いには、たいてい答えがふたつありました。まるであの小説に、二つのラストがあったように」


 三浦は、一枚のメモを取り出した。どこかの住所と、何かの場所が示されている。


「美知恵が、眠っている場所です」


「私・・・・・・」


 それでも私は、メモを受け取っていた。そうして二人の間に、長い沈黙が流れた。言葉が足りなかったのではなく、もう語る言葉がなくなった。そんな気がした。


 先に席を立ったのは、三浦だった。財布を取り出す彼に「私が」とだけ言うと、笑って「ご馳走になります」と言って笑った。男性の笑顔を、美しいと感じたのは、初めてだった。


(どうか、お元気で・・・・・・)


 掛けられなかったその言葉を、私は胸の底から彼の背中に送り出した。


 この先、彼に会うことは、きっとない。

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