20.佳樹
痛みに呻きながらも、どこかで冷静な自分がいた。まるでこれが、あらかじめ決まっていた結末であると、知っていたかのような。
一番大きなワゴン車の影に私は連れられ、振り向きざまに平手打ちをまた受けた。同じ場所を打たれ、熱の上に熱が重なる。斜め上から打たれたまま、顔を上げることができない。
そこに、ひんやりとした雫が落ちた。雨粒だった。じきにここも、雨に変わる。今度は、ずぶ濡れになるかもしれないな。焼けたような痛みの中、状況にそぐわないことをぼんやりと思っていると、強い力で胸倉を掴まれた。
このまま、殺される。そう覚悟した私の耳に届いたのは、小さな呟きだった。
「何で、こうなっちまうかなぁ・・・・・・」
指の震えを感じて、恐る恐る目を開けると、佳樹は笑っていた。笑いながら、涙していた。それは空から降ってきた雫ではなく、正確に目じりから頬をつたっていた。
「あんな、クソみたいな家に生まれて。俺たちを殴ってばかりの父親に、それを庇う母親によ。そういうとき、誰が一番犠牲になるか分かるか? 一番弱い奴だよ」
私の母が前に訪ねてきたときの、笑顔を崩さない佳樹を思い出した。そして一度だけ発した、「自分のところもそうだった」という、続きを得なかった一言。
「何でお前にしたか、分かるか? 俺の色に染めやすそうだったからだよ。思った通り、ちょっと下手に出りゃ、ちょろかったなお前。しかし、なんか影がある女だとは思ってたが、こんなお友達がいたとあっちゃ、納得だ。笑っちまったよ、お似合いすぎてさ」
一気にそこまで喋った後、「まあ、そういう意味じゃ、俺たちも似たようなもんか」と、佳樹は喉を鳴らして嗤った。
「馬鹿な親に育てられた、似たもの同士さ。どうせその美知恵ってやつも、多かれ少なかれ、似たようなもんだろ。あの書き方じゃ、ろくな死に方すらできなかったみたいだがな」
息が苦しい。今や、私を持ち上げんばかりに力が込められた佳樹の手は、もはや首を絞めているのとほぼ変わらない勢いで、私の呼吸器を圧迫していた。かすかな酸素を求めて懸命に息を繋ぐ私に、反論する余裕などない。ただただ両の手を、ほどけないと知りながら佳樹の手に重ねていた。
既に佳樹の目から、涙は消えていた。その目を見て、思い出した。この目は、かつて母が「お前さえいなければ」と口走ったときと同じ。目の前の存在を、根底から否定するためだけの視線だった。
「お仕置きは、帰ってからだな。まあ、のんびり行こうぜ」
そう言いながら、佳樹がいたずらのように、力を込めた。その時だった。
「何をしているっ!?」
びくりと佳樹が身じろぎした隙に、私はようやくその手を振りほどいた。その場に膝をつき、急に流れ込んできた大量の酸素を処理できず、激しくせき込んだ。
胃液がせりあがってきて、雨に濡れたアスファルトの上に広がっていく。
佳樹は、動かなかった。通り過ぎる車のライトで逆光になった、声の主の正体。怒鳴り声であったけれど、何故かはっきりと分った。
「川崎さん、大丈夫ですか!?」
こちらに駆け寄るその声に、顔を上げられないまま、安堵の涙が頬を伝うのを感じた。声の主。それは、三浦だった。
だが、状況はむしろ悪化したのかもしれない。三浦が呼んだ私の名前。それが佳樹に、私たちの関係を気づかせてしまったのだから。
佳樹は、小さく舌打ちをすると、三浦のほうへ向き直った。
「彼女から、離れろ」
あの時とは違う重みのある声で、三浦が言った。それに対して佳樹は、「何で?」と、両手を広げてみせた。冗談を言うときにたまに見せていた、道化のような仕草だった。
「人の女に手出ししてんの、お前だろ? こんなとこで会うとはね。何?あんた。 ここの行員? そんなら、すげーまずいことになると思うんだけど?」
「離れろ」
背広姿の三浦は、傘を捨て、ゆっくりとこちらに歩んでくるのが見えた。来てはダメ。そう言いたいけれど、潰されたように声が出ない。
佳樹はため息をつき、私の側から離れた。
「川崎さん、大丈夫ですか!?」
駆け寄ってきた三浦が、私を抱き起す。返事の代わりに、懸命に頷く。一瞬、危機は去ったと思った。けれど私の目に入ったのは、三浦の背後で、握りしめた両手を振りかぶる、佳樹の姿だった。
警告することは、できなかった。三浦の頭部に衝撃がはしり、顔面から地面に叩きつけられた。咄嗟に伸ばした手は、その瞬間には佳樹に掴まれていた。
私は初めて、懸命にもがいた。けれどその抵抗も、腹部を殴られるまでだった。
「千尋、具合が悪いのか? 待ってろ、今タクシーを呼ぶからな」
わざとらしい張り上げた声を上げながら、佳樹が私を立ち上がらせ、出口へと向かっていく。
もう、終わりだ。涙も出なかった。私のせいで、三浦さんまで。本当に。本当に、ごめんなさい。
最後の涙が流れたのと、背後から「美知恵ぇっ!!」と叫ぶ声が聞こえたのは、同時だった。




