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19.孤独

 ポシェットに入っていたのは、ハンカチや、目薬、マスク、そして非常用の千円札と、小銭の入ったコインケースだけだった。スマホを持ってこれなかったのは痛手だったけれど、今となっては何の仕掛けが施されているか分からないから、デメリットばかりではないはずだ。


 すれ違った人数人が、私の顔を不審そうに見ていくのを感じて、私はようやく頬と唇の痛みを思い出した。自分がされたことを思い出し、遅れて身体が震えだした。


 ひとまず、大きめのマスクをして、セミロングの髪の毛を寄せて頬のあざを隠した。手近なところにあるコンビニのトイレで、濡らしたハンカチで顔を吹き、少しの間頬を冷やす。迷った末、濡れたハンカチはゴミ箱に落とし、冷たい飲み物を買って、店を出た。大した距離ではないけれど、少なくとも、いつも来る方向ではない。


 所持金は、そう多くはない。どこに行けばいいのだろう。


 警察? けれど世の中には、相談しても杜撰な対応をされたり、口頭注意や厳重注意で対応してくれても、それがかえって加害者を刺激し、もっとひどい悲劇を招いた例もある。あるいは、傷害罪などで佳樹を逮捕してくれるのだろうか。


 そうなると、佳樹の未来は確実に奪われる。少なくとも、社会的には致命的だろう。私に、まったく非がないかと言われれば、そうは思えなくなってきた。そもそも私が、美知恵のことなど思い出さず、三浦の要望など無視していれば、こんなことには・・・・・・。


 皮肉なことに、こんなときになって美知恵との思い出が浮かんできた。


 三浦が私を見つけるきっかけになったあの写真を撮った、ひまわり畑に行った帰りだった。終盤に差し掛かりつつある原稿を手に、私は彼女に訊いたのだ。


「世界がこう見えている」という美知恵に対し、「じゃあ、その世界は変えられないの?」と。


 思えばそれは、愚かで残酷な問いだったのかもしれない。けれど美知恵は、いたずらっぽく笑って答えた。


「それは、秘密です。ほら、ラストって、最後まで分からないじゃないですか」


 それは、本当に他愛のない会話だった。最後まで分からないラスト。そしてこうして残された、二つのラスト。それは私に、そして私たちに、何を伝えるものだったのだろう。


 手の甲にかすかな冷たさを感じて空を仰ぐと、いつの間にか半面が薄黒い雲に覆われていた。ほんの少し前まで、傘を持たずに出ていった佳樹を心配していた自分が、急速に幻に変わっていく。雨が、ぽつぽつと身体を濡らし始めた。けれど、一か所にとどまるには、まだここは、あの家から近すぎた。


 私は大勢の人が吐き出されてくるその場所に、小走りで飛び込んだ。



 ギリギリだったけれど、最寄り駅までどうにかたどり着き、私は電車を降りた。雨雲は、まだこちらまでは来ていなかった。もしかすると、こちらでは降らないのかもしれない。ちょうど良かった。もう、傘を買うお金も残っていない。スマホがないから、電子マネーも使えない。喉も乾いた。駅前で買った水は、もうなくなっていた。


 駅員さんに、あの場所の位置について聞いた。距離的に、バスか、タクシーを使うように勧められた。けれど断ると、わずかに不審がっている空気が伝わってきた。「他にも立ち寄りたいところがあるので」と継ぎ足すと、最終的にはおおまかな道程について、教えてもらうことができた。基本的には、方角さえ間違わなければ、そのまま各バス停を道なりに辿って行けばいいとのことだった。


 さっきまで温かい部屋にいたとは信じられないほど、私の身体は凍てついていた。咄嗟に履いたパンプスの中の足はじくじくと痛み、太ももは歩くごとに悲鳴を上げ始めた。公園前のバス停まで歩いたとき、大時計が目に入り、ようやく時間を確認することができた。もう、遅い。


 最悪の場合を考え、その場合どこで夜を越せばいいのだろうかと考えた。何も浮かばなくて、情けなくて涙が出そうになった。どこかに匿ってもらうのか、やはり警察なのか、それとも、一晩中歩き続ければいいのか。


 その場所についたのは、定時と呼べる時間を三時間近く過ぎたころだった。


「小酒井銀行」


 三浦から渡されかけた、名刺にあった銀行の名前だ。


 予想通り、明かりはついていなかった。真っ暗だった。奥に駐車場が見え、それでも何台かの車が止まっていた。警報か何かが鳴るかもしれないが、それはそれでかまわなかった。私は、緩くチェーンがかかった入口を乗り越え、車のほうへ向かった。


 白のステーションワゴン。紺のワンボックスカー。黒のセダン。名前が分からない大型車。持ち主の分からないそれらをぼうっと眺めていると、ようやく追いついたように、音を立てて絶望が訪れた。


 ここで泣けたら、どんなに楽だろう。子どものように、声を上げて泣けたら。


 その場で座り込みそうになった、そのときだった。後ろから髪をぐっと掴まれ、嘲笑う声がした。その声だけで、振り向かなくても分かった。佳樹だった。

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