18.暴走
店のある路地裏から出ると、そこには何事も無かったように、喧騒が広がっていた。人々は足早に、あるいはゆったりと談笑しながら歩を進めている。まるで、かつての私たちのように。
(あなたは、何を・・・・・・)
問いかけても、答えは返って来ない。彼女は私たちにこの小説だけを残して、逝ってしまった。遠くへ。私たちの届かない、遠くへ。今、私たちには、言葉だけが残されている。けして語り合うことのできない、永遠に書き換えられることのない言葉。
彼女の「願望」を、私はもう、これ以上知ることはないのかもしれない。
※
「ただいまー。あー、疲れた」
「お疲れ様。もうご飯炊けてるから、とりあえず着替えちゃって」
背広を脱ぐ佳樹にハンガーを渡し、私はテーブルに食器を並べた。
「サンキュ」と、佳樹はそれを受け取り、寝室へと向かった。
「今日はいつもより早いじゃん。定時上がり?」
炊飯器のジャーからご飯のよそい、何気なく訊いただけだった。
けれど返ってきたのは、「いや、今日会社行ってないんだ」という、想像もしていなかった返事だった。「え?」と振り返ったとき、あの手が見えた。手のひらではなく、拳だった。
頬骨に激突するような衝撃がはしり、自分の首がめいっぱいに右を向き、口の中で血の味が広がった。茶碗が床に落ちて中身ごと砕け散ったのは、その一瞬後だった。
倒れ込んだ私を、仁王立ちした佳樹は、何の感情もうかがえない、見たことのない表情で見下ろしていた。
「けっきょく、てめえもかよ」
髪の毛を掴まれ、私は苦痛のうめき声をあげた。
「つけ上がってんじゃねぇよ。それとも、知らないとでも思ったか。まあ、そうだろうな。で、誰があんな男にのこのこ会いに行っていいって言った? 言ってみろよ」
「どう・・・・・・して」
かろうじてそれだけ口にすると、佳樹は急に髪を離し、私は顎を床に打ち付けた。唇の別の個所が、また切れたのが分かった。
「USB。面倒なロックかけやがって。まさか、自転車の鍵と同じ番号なんてな。いい加減あきらめようかと思ったけどさ、最後にラッキーだったよ」
背筋に寒気がはしったのは、パスワードを見破られたからではなかった。そこに至るまで、私の見ていない間に血眼でキーを叩く佳樹の顔が浮かんだからだ。
「じゃあ、あのとき・・・・・・」
床にはいつくばって、顔だけを上げて佳樹に向かって言うと、「ご名答」とおどけた様子で佳樹は言った。その眼は、空洞のように黒かった。
「パンクした? 俺がやったんだよ。そうでもしないと、お前の自転車、使えないじゃん。手間はかかったけど、ま、収穫は大ありだったわけだ」
私はもう、何も言えなくなっていた。立ち上がろうとして、手のひらに痛みがはしった。茶碗の欠片が、皮膚を切っていた。
「で。お前、道庭とヤッたの?」
「何よ・・・・・・それ」
何を言われているのか分からなかっただけなのに、佳樹はそれをはぐらかされたと思ったようだ。再び、今度は平手打ちが飛んだ。頬で熱がはぜ、目の奥で火花が散った。
「クソ上司が急に呼び出しやがって、全部は見てねえんだよ。で、何やってんの、お前ら。あの『願望』っていう、自分可哀そうのかたまりみたいな本、その美知恵ってやつが書いたんだろ? 何が『止めてください』だ。そんなもんにホイホイ乗せられて出ていくお前は、本物のクズだな」
「待って」と、言おうとした。「話を聞いて」と。普段の佳樹なら、絶対にこんなことをしない。きっと、分かってくれる。けれど必死に言葉を発しようとして、声が出なくなった。佳樹の真っ黒に染まった目。口元には、吊り上がった笑みが浮かんでいた。ここまで来て、全身が震え始めた。呼吸が、苦しい。その様子を、佳樹は壊れたおもちゃを捨ておくように、見下ろしていた。
「馬鹿な血は、争えないってか。ま、そういう意味じゃ俺も同じか。あーあ。これで俺も、親父の仲間入りだ。けっきょく俺も、あの家の人間なんだな。惜しかったなー。お前みたいなやつ相手なら、なんとかなりそうだったんだけどな」
何を言っているのか、分からない。分からないでいると、横腹に佳樹のつま先が突き刺さった。身体がまた、大きく倒れた。内臓をえぐられるような激しい痛みに呼応して、口から胃液が飛び出した。涙と唾液が、止まらない。
殺される。ここで、殺される。
逃げなきゃ。けれど女の私が、佳樹を倒せる手段などない。終わりだ。
美知恵。こんなかたちだけど、私はあなたのところに。
いや、まだだ。私の目に入ったのは、佳樹と食べようと温め直したみそ汁だった。それはまだ、テーブルの上で不釣り合いに温かな湯気を立てている。肌寒い日だったから、少し熱めにしておいたものだ。
無我夢中だった。私は全身で飛び起きると、テーブルの上の液体を佳樹の顔目掛けてぶちまけた。佳樹が悲鳴を上げるのと、私がポシェットを掴んで外に飛び出すことができたのは、ほんの一瞬の時間差だった。