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17.罪

「美知恵には、本来誰もいないはずだったんです。ですが不在のその場所に、短い過去の間だけでも、あなたがいた」


「違います・・・・・・。私は、美知恵を」


 裏切ったんです。それは、誰に向けたわけでもない告解だった。けれど三浦は、そんな私の呟きに、静かに首を振った。


「川崎さん。これが、美知恵にとっての真実だったんです。そしてこうして、あなたは美知恵にまた会いに来てくれた。さっきだって、記憶の海から、美知恵の言葉を拾い上げてくれた。美知恵を思い出してくれた。それで、十分じゃないでしょうか」


「それはあくまで、結果です。本当の私は、あなたや美知恵が思っていたような人間ではありません。私は彼女を、見捨てたも同然で・・・・・・」


 不意に涙が一筋流れて、言葉にならなかった。過去を美化するのは、簡単だ。けれど真実は、そうではない。あのとき私は、美知恵の無事を祈りながらも、心の中で確かに背を向けていたのだ。そんな私に、涙する資格などない。手の甲でそれを拭って、私は振り払うように続けた。


「もとはといえば、そもそも三浦さんの行為が、すべての始まりだったじゃないですか。『願望』の盗用に加えて、『どうか、私を止めてください』なんて。あれはいったい、何だったんですか?」


 心の動揺を投げ込むように問い返すと、三浦は表情を曇らせた。わずかな沈黙の後、テーブルの上で両手を組み、三浦は言った。その表情は、中身から枯れていった樹木が倒れていくような、痛切な影をまとっていた。


「少し、長い話をさせてください。仮の話も、やや混じりますが」


 困惑しながらも、私は頷いた。三浦はわずかに、天を仰いでから言った。


「彼女の名誉のために、例え川崎さんに対してであっても、多くは語れません。ですが、一つ言えることがあります。私が思っていたよりはるかに、あの家は異常でした。表に出ている絢爛豪華な装飾の、いわば彼女は部品でした。とうに壊れたあの家族の安定を保つ、ただそれだけのための」


「・・・・・・」


 先ほど組んだ三浦の両の手は今、硬く握りしめられていた。三浦は、その手を見下ろして続ける。


「私は、許せなかった。生のあるうちも、そして死してなお彼女を冒涜し、物のように使い捨てて表舞台を生きる藤枝家の人間。そして彼女の抱える本当の痛みに気づきもせず、あまつさえ我が身可愛さで、あの父親に最後まで逆らえなかった自分を」


「三浦さん、あなたは・・・・・・」


 一つの可能性に突き当り、堪えきれず声をあげた。顔を上げた三浦は一瞬、薄氷のように強張った表情を浮かべていたが、「仮に、ですよ」と小さな笑みを浮かべて見せた。


「ご心配なく。川崎さんがご想像されたようなことは、実際には起きません。残酷なことに、幸福を手にした美知恵は死を選び、残された僕たちは彼女を追うことは許されず、人としての生をまっとうする他ない」


「・・・・・・三浦さん。あなたは、まだ」


 止めてほしいのではないか。現実には起こり得ない、けれど空想の中では、何千、何万、もしかすると、生ある限り永遠に続くかもしれない、復讐を。裁きを。そしてけして終わることも許されることもないであろう、自らが課した、孤独の中で背負うにはあまりに重い、贖罪の道を。


「川崎さん」


「はい」


「美知恵が最後に加筆したその文章ですが、じつは私があなたにお話したかったのは、このことなんです」


「『私は飛べる? 多分・・・・・・』」


 しごくシンプルな問いかけと、わずかな疑念。


「この最終原稿は、美知恵の死後、私が彼女の遺したデータを整理していて見つけました。更新の日付けは、あなたに原稿が送られてから、後のこと。もっと言えば、彼女の死の前日です」


「・・・・・・」


「これは、美知恵だけに秘められた、最後の言葉だったのでしょう。飛びたかったのか、そのまま落ちたかったのかは分かりません。あるいは、そのどちらでもなかったのかもしれない。ですが、どれも推測です」


「・・・・・・」


「けれど私には、少なくとも。少なくとも、川崎さんと歩んだこの『願望』に、確かな幸福があったと思えてならない。彼女はこの最後の言葉を抱えて、旅立った。それを私たちは、幸福とは呼ぶことはできない。ですが・・・・・・」


 三浦も私も、それから先を口にしなかった。できなかった。


 テーブルの隅に置いた三浦の名刺を差し出して、私は言った。


「これは、お返しします。身内との間で、誤解を招く恐れがありますので」


 銀行とはいえ、遠く離れた場所のものだ。まして、主任の肩書を持つ三浦に、私が出会う機会は、そう多くはないだろう。佳樹のいぶかしむ顔が、浮かんだ。


 三浦はただ、「感謝しています」とだけ言って、それを受け取った。それが、合図であり、分岐点だった。


 原稿をしまい、頭を下げた三浦は、一万円札を置いて、店を出ていった。


 その背中は、消しゴムをかけたデッサンのように不確かなものだった。 

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