16.美知恵
三浦は、すぐには口を開かず、代わりにコーヒーに口をつけた。ここに来て初めて、わずかに緊張を孕んだ動作だった。
「雪枝様は、『願望』を既にお読みに?」
「はい」
「率直に申し上げましょう。美知恵は遺書を残しておらず、動機は不明です。ですが」
そう言って、三浦は封筒に入った紙の束を取り出した。
「美知恵が最後に書いた『願望』です。雪枝様がお読みになったであろう結末部分に加えて、もう一ページ加筆されています」
「もう一ページ・・・・・・」
ならば、「願望」は実質、二部存在していたことになる。逸はやる気持ちを押さえ、ゆっくりと最後のページをめくった。
「『Can I Fly? Maybe…….』・・・・・・?」
唐突な一文だった。記憶の中の文章との繋がりを求めて、その直前のページをめくる。私が知っている「願望」のラストは、主人公・朱莉が、度重なる暴力によって傷だらけになった身体を砂浜に横たえて、波風の音に包まれながら目を閉じるシーンで終わっていた。朱莉の頬を伝う雫の描写は、水しぶきとも、降り出した雨とも、涙ともつかない、絶妙な示唆を提示しながら、物語の最期を彩っていた。
「今はほんの少しだけ、この気持ちに身をゆだねていたい。幸せの欠片を拾い集める私には、幸せはまた微笑んでくれるだろうか。答えの代わりに、波間に浮かんだ夕日が私を包んで、空に放った。」
それは私が託された「願望」の、最後の一文だった。そしてこれこそが、私がその含意を掴めないでいる、美知恵の残した最後の一文だった。これは自由か、終焉か。希望なのか、絶望なのか。
「練炭自殺でした」
三浦が初めて、苦しそうに言った。
「父親の所有する土地の、忘れ去られたコテージの中に、これも使われていなかった古い車がありましてね。大量の薬を飲み、そこで彼女は。よりにもよって、あんな狭くて、暗いところで・・・・・・」
「三浦さん・・・・・・」
絞りだすように、三浦は言った。テーブルに置かれた手は強く握られ、細かく震えていた。
「第一発見者は、使用人だったそうです。雪枝さん。美知恵の死に際して、美知恵の父が言った言葉は、分かりますか?」
「いいえ」
「大事にはするな。それだけだったと。直葬でした。そして言われた通り、口を閉ざす。そうして僕も、保身のためにそれに加担してしまいました」
私は言葉を失った。美知恵の命は、何だったのか。閉じたまぶたの裏に、こちらを見つけて手を振る美知恵の姿が浮かんだ。私の中で、この世のすべての不条理が、濁流のように駆け巡った気がした。長い息を吐いて、三浦が言った。
「雪枝さん。彼女が書いた、この言葉を覚えていますか。『幸せは』」
「『壊されることが、前提だ。だから私は』」
いつまでも、幸せでいることが。
互いに文末を引き取ることなく、互いの目を見つめ返した。三浦が口を開いた。
「雪枝さん。いいえ、川崎さん。これも、僕の推測に過ぎません」
「はい」
「美知恵は、僕ら、いえ、川崎さんや僕との関係を守るために、死を選んだのではないでしょうか」
長い長い時間がかかったような気がした。けれど、実際は数秒のことだろう。人通りのない窓の外を見やり、目を閉じた。美知恵の痕跡を辿るように、三浦は続けた。
「彼女は、幸せを知らなかった。けれど私たちとの関係の中で、彼女はそれを知ったのだと思います。けれど、彼女にとって、幸せとは世界に対して、あまりにも脆く儚いものだった。だから彼女はその幸せを、守りたかった。遠くに、永遠にかくまうように」
「私たちとの」と聞いて、咄嗟に、「違う」と思った。
加筆するたびにこの小説を持ち込んできた、美知恵の顔を思い出す。あどけない表情で、彼女は笑っていた。そんな彼女から身を引いた私に、それを言う資格はない。その思いを汲んだかのように、三浦が言った。
「川崎さん。覚えておいでですか。美知恵が最後に、あなたに当てた原稿に残した、メッセージを」
私は何も言えず、首を振った。心の震えが邪魔をして、記憶のふたを上手く開けれない。混ざり合った光景を手当たり次第にまさぐっていると、三浦が言った。
「『あなたにだけ、預けます』。彼女は、僕ではなく、最後にあなたを選んだんです。現に、あなたはこうして彼女を手放さなかったじゃないですか」
「そんなこと、ないです。あれはただ、たまたま私が削除していなかっただけで・・・・・・」
私は、事実を口にしようと試みる。実際、その通りだ。私は美知恵や、三浦が思うような人間ではない。けれど、それ以上の言葉を制するように、三浦が続けた。
「美知恵が、言っていました。『私の幸せを、願ってくれた人がいる。その人に、この小説を贈りたい。きっと忘れずにいてくれる』と」