15.三浦
「婚約者・・・・・・」
舌の上で転がしたその言葉に、不意にざらりとした質感を覚えた。
道庭、いや、この三浦という男は、美知恵の婚約者だと、確かに名乗った。理解が追いつくにつれ、目の前に座るこの男が、先ほどまでの親し気な雰囲気をはぎ取られた、異質な存在に思えてきた。
父親の決めた縁談。かつて美知恵が口にしたその言葉が、脳裏をめぐった。前時代的としか言いようがない悪習。そして、そうした本人の意向を無視した話に易々と乗る、名前も知らない相手のことも、私は心の底から、嫌悪していた。
気軽に婚約者などと、口にしないでほしい。そんな反感が表情に出てしまったのだろう。けれど道庭、いや、三浦は、意外な言葉を口にした。
「愛情がなかったと、お思いですか?」
虚を突かれて、言葉に詰まる。
「それは」
どういう、と続けようとして、三浦は「僕たちの間に、ということです」と言い添えた。
「見当違いでしたら、申し訳ありません。美知恵はこのお話も、既に雪枝様にしていたのではないでしょうか?」
様々な顧客を相手にしてきた経験からだろう。こちらの手の内は、最低限しか明かさないつもりだった。けれど、今さら取り繕ったところで、三浦の目は、ごまかせそうになかった。私は言葉にはせずに、首肯した。
「信じていただけるかは分かりませんが、少し長話をさせてください」
私が頷くと、三浦は「失礼」とことわって、新しいコーヒーを注文した。「雪枝様は」と訊かれたが、私は首を振った。オレンジジュースは、半分も減っていなかった。
「僕ら、いえ、少なくとも私は、美知恵を愛していました。それは、美知恵も少なからず、一致していたはずです」
「根拠は、何ですか?」
愛情とエゴは、紙一重だ。慎重に問うと、三浦は鞄から、青い便箋を取り出した。全部で、六通あった。
「ご推察の通り、当初、私と美知恵の関係はぎこちないものでした。意外に思われるかもしれませんが、実は、私は最初に会ったときから、美知恵に好意を寄せていました。ですが、美知恵の気持ちはどこか別のところを向いている。逢瀬を重ねても、その思いが拭えない日々が続きました」
コーヒーを運んできたマスターが去ってから、「きっかけは、ささいなことでした」と、三浦は続けた。
「通り雨が降りましてね。当然二人とも傘など持っておらず、手近な店に、飛び込んだんです。ちょうどこの店のような、年季を感じる建物でした。そこは個人経営の、文具店でした」
そう言って、三浦は懐かしむように目を細めた。
「ちょうど、互いに会話も手詰まりになっていたときです。これ幸いと、万年筆を新調していいかと、美知恵に尋ねました。彼女も、気疲れがあったのかもしれません。快諾してくれました」
三浦の過去を辿る言葉は、淀みのない流水のように耳に届いた。私は黙って、先を待った。
「私が会計を終えると、名前を呼ばれました。もちろん、それまで名前を呼ばれたことは幾度もありましたが、彼女があんな風にまっすぐに目を見て、私の名を呼んだのは初めてでした。彼女の手には、青色のラメが光るガラスペンのケースが、ぴったりと収まっていました」
それから、このやりとりが始まったのですと、三浦は便せんに触れた。それは、ひどく慈愛に満ちた手つきだった。
「今どき古風なと思いましたが、文通というのも楽しいものですね。電波では乗せることができない言葉が、紙の上には何故か現れる。そのうち、文字ひとつとっても、相手の気持ちが伝わってくるような気持ちになってくる。彼女はもとより、それを知っていたのでしょう。だからこそ、私にその話を持ち掛けたのかもしれません。ガラスペンと万年筆とのささやかなやりとりが、始まりました。これは、彼女からの手紙です」
「見せていただいて、よろしいでしょうか。その、差し支えなければ」
不躾なことと自分でも思ったが、三浦は微笑んで、「どうぞ」と便箋を差しだした。銀行員らしく、清潔に整えられた、健康的な色身を帯びた手だった。
礼を言って、中身を取り出す。記憶に残る美知恵の筆跡に、よく似ている。何より、柔らかさを感じる話し言葉で書かれたその文章は、私たちが互いの中に互いを見ていた、あの頃の響きに近いものを感じさせた。
一瞬、微笑みながらガラスペンを手に取る美知恵の姿が浮かび、私は素早くまばたきをして、その像を封じ込めた。
「失礼しました。お返しいたします」
私は、小さく息を吐いた。少なくとも、すべてが三浦の独りよがりというわけではないようだ。その分、疑問が膨らむ。ならば、何故。
私は覚悟を決めて、口を開いた。
「なら何故。何故、美知恵は、死を選んだと思われますか?」




