14.道庭
「けっきょく君は、幸せになろうとする気なんて、初めからなかったんだ」
海岸を吹き抜ける風に目を細めながら、彼は吐き捨てるように言った。
私はそれに、言葉を返さなかった。
私の中にも、幸福と呼べるものはあった。なのに、何故彼には、それが分からないんだろう。私にそれ以上を求められても、困ってしまうばかりだというのに。
それでも彼は、「帰ろう」と言ってくれる。波音が、優しく私を懐に包む。
けれど私は、首を横に振ることしかできない。
「いったい、何なんだ君はっ!!」
堪えきれないというように声を震わせ、とうとう、彼が怒鳴り声をあげた。
私は、答えられなかった。もう何度も、その問いは向けられていた。けれど私は、まだその答えを見つけることができないでいる。
しぶきを上げた波の音が、彼の抑えきれなかった感情を少しずつ絡めとっていく。彼は、驚いているだろう。私に対して、むき出しの怒気をぶつけた自分に。手を取ろうとした相手に、他ならない自分自身が、糾弾の指をつきつけてしまったことに。
何度目かにその波が引いていくころ、私は彼のほうに振り向いて答えた。
どうか伝わりますようにと、手に入らないあの月の砂に手を伸ばすように、遠くへと願いながら。
河野千春 「願望」より
※
懐かしさに勝ったのは、哀切のような感情と、ちりりと胸にはしる罪悪感だった。
実際には、私たちの間に、こんな激しいやり取りはなかった。けれど私の中に、この男のような感情が芽生えていなかったといえば、嘘になる。美知恵は、幸せを拒んでいる。そう思っていたのは、事実なのだから。
その記憶を閉じ込めるようにPCを閉じ、フレアワンピースの上に、薄いジャケットを羽織って、私は家を出た。
そして、今。目の前にいるその男が、道庭壮介、本人だった。
輝きを失い、鈍い音を立てるベルを鳴らして指定した場所へ入店すると、彼は用紙の束から顔を上げ、奥の席からこちらを見やった。最低限ではあるが、えんじ色のショルダーバッグという特徴を伝えていたためか、私であることは、すぐに分かったようだ。
「雪枝様でしょうか。このたびは、ご足労をおかけしました」
道庭は立ち上がり、そう言って頭を下げた。向き直った顔には、細く流れた眉に、切れ長の目。べっ甲色の軸の眼鏡をかけている。近眼のようだ。鼻梁はすっと整っていて、唇はやや薄いが、冷たい印象は受けない。体毛は薄く、どちらかといえば全体的に中性的な、整った顔立ちをしていた。
一見、私たちの年齢とそう変わらないように見える。全体的に柔和な雰囲気でありながら、けれど独特の風格がある。三十歳か、その少し上といったところかもしれない。道庭は「お会いできて光栄です」と、世慣れた社会人特有の、礼儀正しい笑みを浮かべた。しかしその表面には、消せないやけどの跡のような、かすかな影がにじんでいた。
体つきは細身に見えるものの、よく見ると全体的に程よく身についた筋肉のラインが浮かび上がってくる。訊くと、マラソンが趣味で、大会に出たこともあるのだという。「すごいですね。私なら絶対に無理です」と、無難に伝えた社交辞令に、道庭は社会人らしく謙遜しながら、それでも初めて感情が滲んだ微笑を見せた。
「立ち話も何ですから」という文字通りの彼の言葉で、私たちは互いに腰を下ろした。相変わらず中途半端に硬い席に座りながら、私は目の前の道庭という存在に、そして美知恵と通ったこの場所の変わらなさに、喉の奥が渇いていくのを感じた。
あの頃よりもまた年老いたマスターに、オレンジジュースを注文した。言葉なく頷いたマスターが下がっていったタイミングで、わたしはコップの水に口をつけた。
「どこからお伝えしましょうか」という道庭の言葉に、まずは道庭自身のことを教えてほしいと私は答えた。頷いて、道庭が話し始めた。表の喧騒が遠いこの場所に、道庭の低い声はよく通った。
本名は、三浦健みうらたけるだという。もっとも、それすらも偽名だったとしても、わたしには見破る手がない。両の指が添えられた名刺には、地方銀行の名前と「主任」の二文字が並んでいた。
名刺に記載された支店は、隣接する県との境目にある、大学病院近くに位置していた。同じ県でも、中心部から逆側に奥まったところにあるこの場所には、それなりに距離がある。朝の十時という早い時間を指定したのを、少し申し訳なく思った。
三十歳か、その少し上といったところかもしれない。道庭が、とうに熱を失ったように見えるコーヒーに口をつけたタイミングで、早くに遠方から呼び出した非礼を詫びた。道庭は、気分を害した様子もなく、「色のない男一人暮らしですので、自由が効くんです」と、相変わらず影を含んだまま笑った。
安定した地位のある目の前の男と、盗作を告発され、社会から姿を消した元作家。そして、最後に見た、朧おぼろの灯りのような美知恵の面影。それらの像が上手く重ならず、私は水面下で、少しずつ混乱していった。
道庭は、私について、詳しく尋ねようとはしなかった。それが気遣いからか、既に訊く必要がなくなっているからなのか、図りかねない。沈黙が流れた。
ちょうど運ばれてきたオレンジジュースを前に、私は焦りを悟られないように、けれど手早くストローの封を切った。長い話になるかもしれない。いつまでも、遠回りな探りを入れているようでは、こちらの身が持たない。けれど、無音が続くほど、口の中が乾いて、言葉が上手く出てこない。微細な手の震えを悟られまいと、ゆっくりとストローに口をつける。
覚悟を決めて口を開こうとした。ちょうどその時、道庭が言った。
「僕は、美知恵の婚約者だったんです」




