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13.リミット

 自分が望まれないままに生まれてきてしまったと知ったのは、十三歳のときだった。いつものように母を振り切った兄を、それでも母は必死に追いかけた。


 そのとき母は、清掃のパート先で足を痛めていた。だから私は、咄嗟に駆け寄ってしまった。あの頃私には、まだ取り戻せるものがあると信じるだけの幼さがあった。


 目の前で、乱暴に閉ざされたドアと、暴力のようなエンジン音がして、兄が行ってしまった。母は初めて痛みに気づいたように足を押さえ、そのまま崩れ落ちるように床に手をついた。


 大丈夫? きっと、そんな言葉をかけたのだろう。幼い、無知な私は。


 母は、しばらくの間、答えなかった。身じろぎ一つしない母の様子に、私は、だんだんと心配になってきた。このまま母が、彫像のように動かなくなって、そのまま息を止めてしまうのではないか。あの時、私を支配したのは、置いて行かれるという恐怖だった。


 「お母さん・・・・・・」。


 たぶん、そんな声掛けをしたのだろう。恐る恐るでも、可愛そうな母に、手を伸ばしたのだろう。けれどその瞬間、母は今までの様子が嘘のように、一瞬で私の腕を掴んだ。強い力だった。割れた母の爪が立ち、私の腕の皮膚に食い込んだ。


 痛みを訴えようとして、私は口がきけなくなってしまった。母の目が、私を見据える母の目が、黒く爛々らんらんと光っていたから。


「お前が、いなければ」


 母の眼に呑まれるのを感じながら、私は言葉の続きを聞くしかなかった。他に、どうしようもなかった。


「お前さえできなかったら、三人で幸せになれたんだっ!!」


 勢いづいた母が手を振りかぶったのが視界に入り、反射的に目をつむった。けれど、一瞬遅れて聞こえたのは、陶器が砕ける、無慈悲で硬質で、ひどく冷たい音だった。母が手のひらの先を向けたのは、私の真横に置かれていた、もう長く花が生けられていない花瓶だった。


 昔、聞いたことがある。父と母がまだただの夫婦だったころ、二人で見繕って買った品物だと。梅の花を飾りながらそう語る母の顔は、穏やかで安らかで、私はこの顔をずっと見ていたいと思った。


 だから打つなら、私を打ってほしかった。


 唇が切れようと、頬にあざができようと、時間が経てばなかったことになる。私より大事なものが、私のために壊されてしまった。そう思った。


 その瞬間を、私は大人になった今も、仄かな苦みと共に思い出すことがある。


 嗚咽する母を前に、私は自分の足元が、急に歪んでいくのを感じ続けていた。



「雪枝様


 不躾なお願いにも関わらず、ご承諾をいただけましたこと、厚く御礼申し上げます。いえ、堅苦しい物言いは控えます。貴女のご厚意に、ただただ救われるばかりです。場所に加え、日時についても、可能な限り雪枝様のご都合に合わせたく思います。引き続きご検討くださいますと、幸いです


                                            道庭」


 余白の目立つスケジュール帳を閉じ、私はPCを閉じた。いくつか候補を並べるべきだったかもしれないけれど、これ以上、道庭に合わせるつもりはなかった。


 正体も目的も分からない相手にペースを掴まれることは、例えこんな些細なことであっても避けたかった。


 美知恵と行ったあの喫茶店を指定したのは、あるいは道庭の予想の範囲内であったかもしれないけれど。私には、そこ以外の場所が思い浮かばなかった。


 約束は、ちょうど七日後。十四日の、木曜日。


 私は、本当に行くのだろうか。いや、きっと行くだろう。声の代わりに書く言葉を選び、言葉を書き終えて去ってしまった彼女の魂を、永遠に忘れないように。あるいは、今度こそ、永久に忘れるために。


「千尋ー」


 玄関先から、佳樹の声がする。何分か前、出かけてくると言っていたのに。家に入ってきた気配はなかったので、どうやらずっと外にいたらしい。


「何ー?」と声をかけると、「自転車、貸してー」と間延びした声が返ってきた。


 何があったのかを訊きに玄関に歩いていくと、困った顔をして自分の自転車を支えている佳樹がいた。


「何? 自転車、あるじゃん」


「いや、パンクっぽい。ぜんぜん空気、入ってないもん」


 言われてよく見れば、佳樹の自転車は、後輪だけが不自然に凹んでいた。


「ああ、それっぽいね。でも佳樹、車使えばいいじゃん」


「すぐそこだからさ。こんなことでガソリン、あんま使いたくないんだよ」


「まあ、確かにね」


 ガソリンの価格高騰が続いて、もう久しい。上がるニュースがあっても、下がるニュースはこの先もうないのではないかと思うほど、それは常態化していた。


「で、千尋さ。鍵のロック解除したいんだけど、番号は?」


「24✕✕✕✕。気を付けてね」


「分かってる。サンキュ」


 言い終えて、佳樹は自転車置き場に戻っていった。


 あの時私は、暗闇に紛れた佳樹の空気の変化に、何も気がつかないでいた。


 今思えば、あの時点にしてまだ、「もう、戻れないかもしれない」と思うのは、完全な間違いだった。あの時、私はこう思っておくべきだったのだ。


「もう、戻れない」と。



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