11.関係
成就と破滅が隣り合わせであるように、「願望」は、恋愛小説でありながらその多くが不条理に包まれた、不思議な小説だった。
主人公・宮下朱莉は、幸福を手にすることができない。いや、むしろそれを手放すことに魅入られ、運命づけられているようにすら見える。彼女を扱う男は、総じてろくでもない人種だ。あからさまな暴力男、数ある多くの消耗品としてしか、女を見ない男、普段は穏やかでも、スイッチが入ると別人のように朱莉をののしり、手をあげる男。
けれど、彼女は自分から男たちから離れることはない。たいていは周囲の人間や、男たちの破滅により関係が終わり、一時の「間」が訪れる。私が初めて店頭で「願望」を手にしたときに目にしたのは、朱莉が殴られた頬の赤みを鏡で見つめながら、心でつぶやいた言葉だ。
『箱の中では、息ができない。だから私は、彼を愛したのだと思う。身をかがめて息をひそめるとき、息と一緒に体温を、そして私を、葬り眠った。幸せは、壊されることが前提だ。だから私は、いつまでも幸せでいることができた。』
はたして、朱莉は男たちとの関係に、何を望んでいたのだろう。美知恵の小説には、女友達や、他の女性の影が薄い。まるで、故意にそうしたように。
破滅の世界しか知らない魂が、破滅に向かって進んでいく。どこにも行くことなく。いつか自分が自分に対して思ったことがそれと重なり、私は黒くぬるりとした何かを呑み込んだような、後味の悪さに襲われた。
そうだ。私は初めてこの物語を読ませてもらったとき、尋ねたのだ。なぜ美知恵は、この主人公を幸せにしないのかと。
「何ででしょうね。私には、世界がこう見えてるというか。それしか思いつかないからかな。なんか、それ以外は全部嘘に見えるから、書きたくなくて。だから、それをそのまま書いてるだけなんです」
誰ともお付き合いしてないのに、変ですよねと、美知恵は笑った。私は、「そんなことないよ」と言いながらも、たぶん上手く笑い返すことができていなかっただろう。現実の世界で、そんなフィクションのような感覚を通して生きている人間に、初めて出会ったから。それでも彼女は、表現という行為そのものに、幸せを感じているようだった。例えそれが、私という一人の相手にしか理解されないとしても。
あの頃、いや、最後に会ったそのときまで、彼女は幸福そうに笑っていた。
私はそれが、怖かったのだ。あの頃私たちは、互いの中に孤立した自分を見出し、溶け合うことで再び再び世界と交わろうとしていた。
けれど、関係が深まるほどに、時折私は、自分の見ているものと彼女が見ているものが融和しているような、自分が自分であるのか、彼女の中にいる自分なのかが分からないような、そんな感覚に襲われるようになり、狼狽するようになった。
それこそがまさに彼女の「願望」ではないかと気づいたとき、私の中の小さな違和感は、確信へと変わっていった。
発刊された雑誌にはこの先掲載されることのない結末を、私は確かに知っている。
その記憶を手繰り寄せていると、不意に横から声をかけられた。
「千尋ー」
「あ、ごめん。何?」
キッチンから声がする。どうやら、佳樹がずっと呼んでいたらしい。慌てて立ち上がりながら、頭の中を切り替える。
「ごめん、気づかなかった」
バタバタと仕切りのカーテンをくぐると、凍ったパックを手にした佳樹が立っていた。
「いや、いいんだけど。サバ、解凍しとく?」
「ああ、そうだね。そうしよっか」
「大丈夫か? 千尋、何か最近、疲れてないか?」
「ああ、ちょっと。そうかも」
「大丈夫か。話なら、聞くけど」
そう言われて、迷わなかったといえば嘘になる。けれど、美知恵のような理解が難しい存在は、佳樹には受け入れられないだろう。そうした人間を、佳樹はさりげなく軽視するところがある。前におちこんだ女友達が電話してきたとき、電話を終えた私に対する佳樹の反応は、「何?そのうぜー女」だった。
天真爛漫な、天性の明るさ。それは佳樹の強みでありながら、自分の側面に無自覚であれば、それは同時に人を傷つける刃にもなり得る。
言葉を交えたそのとき、その言葉が通じればいい。けれどそのことでかえって距離が生まれるなら、私は平穏を選ぶ。ましてや今回は、道庭のこともある。
正体は分からないが、男性名義の人間とやりとりをしていると分かれば、どんな破綻が待っているか、想像したくもない。
道庭をブロックしないことは、私の問題なのだろう。けれど今、道庭を遮断することは、私の中の美知恵を、今度こそ永久に葬り去ることに等しい。私は、美知恵に対して何をしていたのか。それを私は、どうしても知りたかった。
「千尋さ」
「ん?」
「何か、隠し事してないか?」
喉の奥で鳴りそうになった音を、寸でのところで飲み込んだ。
「顧客がらみだからさ」
私の目を覗き込むように見ていた佳樹は、「そっか」とだけ言って、背を向けた。




