表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/26

11.関係

 成就と破滅が隣り合わせであるように、「願望」は、恋愛小説でありながらその多くが不条理に包まれた、不思議な小説だった。


 主人公・宮下朱莉(みやしたあかり)は、幸福を手にすることができない。いや、むしろそれを手放すことに魅入られ、運命づけられているようにすら見える。彼女を扱う男は、総じてろくでもない人種だ。あからさまな暴力男、数ある多くの消耗品としてしか、女を見ない男、普段は穏やかでも、スイッチが入ると別人のように朱莉をののしり、手をあげる男。


 けれど、彼女は自分から男たちから離れることはない。たいていは周囲の人間や、男たちの破滅により関係が終わり、一時の「間」が訪れる。私が初めて店頭で「願望」を手にしたときに目にしたのは、朱莉が殴られた頬の赤みを鏡で見つめながら、心でつぶやいた言葉だ。


『箱の中では、息ができない。だから私は、彼を愛したのだと思う。身をかがめて息をひそめるとき、息と一緒に体温を、そして私を、葬り眠った。幸せは、壊されることが前提だ。だから私は、いつまでも幸せでいることができた。』


 はたして、朱莉は男たちとの関係に、何を望んでいたのだろう。美知恵の小説には、女友達や、他の女性の影が薄い。まるで、故意にそうしたように。


 破滅の世界しか知らない魂が、破滅に向かって進んでいく。どこにも行くことなく。いつか自分が自分に対して思ったことがそれと重なり、私は黒くぬるりとした何かを呑み込んだような、後味の悪さに襲われた。


 そうだ。私は初めてこの物語を読ませてもらったとき、尋ねたのだ。なぜ美知恵は、この主人公を幸せにしないのかと。


「何ででしょうね。私には、世界がこう見えてるというか。それしか思いつかないからかな。なんか、それ以外は全部嘘に見えるから、書きたくなくて。だから、それをそのまま書いてるだけなんです」


 誰ともお付き合いしてないのに、変ですよねと、美知恵は笑った。私は、「そんなことないよ」と言いながらも、たぶん上手く笑い返すことができていなかっただろう。現実の世界で、そんなフィクションのような感覚を通して生きている人間に、初めて出会ったから。それでも彼女は、表現という行為そのものに、幸せを感じているようだった。例えそれが、私という一人の相手にしか理解されないとしても。


 あの頃、いや、最後に会ったそのときまで、彼女は幸福そうに笑っていた。


 私はそれが、怖かったのだ。あの頃私たちは、互いの中に孤立した自分を見出し、溶け合うことで再び再び世界と交わろうとしていた。


 けれど、関係が深まるほどに、時折私は、自分の見ているものと彼女が見ているものが融和しているような、自分が自分であるのか、彼女の中にいる自分なのかが分からないような、そんな感覚に襲われるようになり、狼狽するようになった。


 それこそがまさに彼女の「願望」ではないかと気づいたとき、私の中の小さな違和感は、確信へと変わっていった。


 発刊された雑誌にはこの先掲載されることのない結末を、私は確かに知っている。


 その記憶を手繰り寄せていると、不意に横から声をかけられた。


「千尋ー」


「あ、ごめん。何?」


 キッチンから声がする。どうやら、佳樹がずっと呼んでいたらしい。慌てて立ち上がりながら、頭の中を切り替える。


「ごめん、気づかなかった」


 バタバタと仕切りのカーテンをくぐると、凍ったパックを手にした佳樹が立っていた。


「いや、いいんだけど。サバ、解凍しとく?」


「ああ、そうだね。そうしよっか」


「大丈夫か? 千尋、何か最近、疲れてないか?」


「ああ、ちょっと。そうかも」


「大丈夫か。話なら、聞くけど」


 そう言われて、迷わなかったといえば嘘になる。けれど、美知恵のような理解が難しい存在は、佳樹には受け入れられないだろう。そうした人間を、佳樹はさりげなく軽視するところがある。前におちこんだ女友達が電話してきたとき、電話を終えた私に対する佳樹の反応は、「何?そのうぜー女」だった。


 天真爛漫な、天性の明るさ。それは佳樹の強みでありながら、自分の側面に無自覚であれば、それは同時に人を傷つける刃にもなり得る。


 言葉を交えたそのとき、その言葉が通じればいい。けれどそのことでかえって距離が生まれるなら、私は平穏を選ぶ。ましてや今回は、道庭のこともある。


 正体は分からないが、男性名義の人間とやりとりをしていると分かれば、どんな破綻が待っているか、想像したくもない。


 道庭をブロックしないことは、私の問題なのだろう。けれど今、道庭を遮断することは、私の中の美知恵を、今度こそ永久に葬り去ることに等しい。私は、美知恵に対して何をしていたのか。それを私は、どうしても知りたかった。


「千尋さ」


「ん?」


「何か、隠し事してないか?」


 喉の奥で鳴りそうになった音を、寸でのところで飲み込んだ。


「顧客がらみだからさ」


 私の目を覗き込むように見ていた佳樹は、「そっか」とだけ言って、背を向けた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ