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  作者: 橘アオイ
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第一章

 第一章


 今日は火曜日で、春間佐文司ハルマサブンジさんの部屋を訪問する日にちだ。

ハルマサさんと呼ぶのが言いづらいので、いつの間にか僕は春間佐さんをブンジさんと名前で呼ぶようになっていた。でも特に文司さんに特別な反応がある訳ではなかった。

 いつものように手の甲を扉にかざすと入口のロックは一時的に解除される。施設の中に一歩足を踏み入れるとかなり広めの小学校にあるような中庭があり、まん中には季節によって水が出ていない時があるものの一応噴水と呼べるものがある。その噴水を軸にして2メートル程の歩道が外側に向かっていくつも広がっていて、その歩道と歩道の間にはベンチや樹木などがコレといった決まりも無く、ランダムに存在している。


 10月半ばの中庭には太陽の日がよく差して、歩道をゆっくりと歩いているだけなのにジャケットの下で脇が汗ばむ。

 一番近くの「隣のイロハモミジと同じグループなんです」とても言っていそうな木製のベンチに腰を下ろすと、暑苦しさのあまり彼は拘束している濃いグレーの制服のジャケットを脱ぎ、背骨にストレスを与えないように程よく反り返っている背もたれにそれを掛けた。

 3メートルはあるのだろうか、まだ緑色部分が多いイロハモミジの少しだけ黄色くなった葉が、強すぎるさっきまでの日差しを遮ってくれているせいで、彼の右頬にはやわらかい風といっしょに風と手を繋いだ太陽の末端がふわりと当たっている。

 このまま訪問用の作業カバンを枕にしていっそベンチに横になってしまいたくなったが、しかしそうもいかない。僕は仕事中なのだ。それにこの施設内のあちらこちらにカメラが仕込まれていて、皆がモニタリングされている気がした。

「それは、僕には尚更だ」

袋井誠フクロイマコトは声にならない擦れたような声で呟きながら左手を太陽に向かってかざした。

 身体の中を流れる血液には、他にどんなものが隠れているのだろうか・・。

どれだけ化学が発達してもその全ては明かされないのか?こんなことを考えるのは僕だけか?それとも僕以外の皆は答えを知っているのか?


 Aエリア第5地区、25棟の5006号室の住人である春間佐文司の所に袋井誠が着くころには少し空気がひんやりしていて、ジャケットを羽織ろうとして彼はやはりやめた。

部屋の扉の前で一度、鏡を見ないで笑顔の練習をしてから右上のセンサーパネルに右手をかざす。

彼の指紋を読み取っていつものように、その扉は開く。

「やあ、袋井さんいらっしゃい」

春間佐文司は扉が開く前から待ち構えているらしく、文司の瞳が彼の姿をしっかりと捉える前にそのセリフが飛び出す。

 一人暮らし用の狭いマンションの半畳もないような玄関のたたきのすぐ後方で、少し曲がった背骨と腰骨の交わるところで後手を組み、文司は誠を迎えるのだ。

「いいんですよ何もわざわざ玄関で待っていてもらわなくても、風邪でもひいたら大変なんですから」

ピピッ。ピピッ。

誠の身体が完全に文司の住まいの敷地内に納まったのを判断すると電子音が鳴り、扉が閉まりロックがかかる。

「風邪ですかぁ?そんな病気も昔はありましたな。もう15年以上は縁がないものでね。すっかり、忘れてしまいましたわ」

文司はそう言いながら手を後ろに組んだまま、誠に白い手のひらを向けてゆっくりと短い廊下を部屋の奥へと進み始める。

「お邪魔します」誠は彼の背中に挨拶をして肩越しに許可をもらうと、脱いだ靴を揃えてその背中に続いた。

 この建物に移住してくる多くの老人たちと同じように文司の住み家にはほとんど余計な物質が存在しない。5年ほど前に完成した生活感があまり感じられないこのマンション風のコミュニティーの、文司たちは第一号の入居者として当時はニュースを騒がせた。

 白を基調とした壁にはセンサーが埋め込まれていて、その季節や時間あるいは体温・心拍数に応じてリラックスしたり気分を向上させられる風景などが映し出される。

高齢者たちが一人暮らしで外出することが少なくなっても自宅に居ながらにして旅先で過ごしている気分になれる。・・というシステムらしい。

開発者の狙った効果があるのかどうかは分からなかったが、この一泊するだけのビジネスホテルよりも更に生活という臭いが感じられない文司の空間に関してはかなり効果的なシステムな気が誠にはした。

 2020年以降、かねてからの推計通りに少子高齢化社会は予想通り進み、未婚者や離婚者が増えたこともあり、老後を一人で暮らす人々は65歳以上の人口の四分の一にまで達し、平均寿命が延びて90歳以上まである程度健康で生きていられるものの、身寄りが無く子供がいたとしてもほとんど縁を切られているような人たちが増えていった。

詐欺や孤独死、認知機能の低下が引き起こす公共道路での逆走や信号無視など、加齢が原因による事故は行政のちからでさえ、もうどうすることもできない。

『溢れてゆく寝たきりという訳でもない、元気だけれども目を離せない高齢者たちを、なるべく偽善的に手を掛けずに統制する方法』

 その解決策として“現代の姥捨て山”が誕生した・・・。



 ただ夢や希望も無く出口の見えないトンネルの壁を伝い歩きする。

ザラついた手触りの途中、苔のような植物に指先が触れ「何だろう?」と思いながら止まらずに進む。コンクリートの繋ぎ目を覚えて、カビの臭いに気が滅入るーーーー。


「ホラ、袋井さんそこに座って。いっしょに食べましょうや」

8畳ほどのリビングの奥で春間佐文司の声が誠を呼ぶ。少しだけ温度の上がった空気の中に化学調味料と醤油がまったりとした油に包まれながら漂う。

 雪平鍋を右手に持ち左手の箸の先からどんぶりの中に中華そばの麺をせわしなく躍らせながら文司は葉を見せて笑い、今度は手際よく包丁に持ち替えた左手の手元には白髪ねぎが刻まれる。

食材が産声を上げて生まれて行く。

台所の片隅から響く包丁とまな板の間で生まれるこの声が誠は幼いころから大好きだった。

 共働きの両親は誠が小学校から帰宅してもいないことが当たり前だった。ランドセルからぶら下がっている革製の巾着袋から鍵を取り出して、真っ暗な鍵穴へとそれを入れドアを開ける。誰もいないシンッとした玄関で礼儀正しく脱いだ靴を上がり(がまち)にかかとをぴったりと付け揃えてから上がる。

 自分の中で「ただいま」を言い「おかえり」を言う。

誠にとっては日常の動作のひとつなだけ。まだ硬い形の良いランドセルから給食用のナフキンにに包まれた昼間のコッペパンのもう半分を取り出す。包丁で一センチくらいにスライスしてマーガリンをぬり、出窓の棚から砂糖の入れ物を手で探る。使ったかバレない程度にマーガリンの上から少しだけ降らせオーブントースターで焼く。

 オーブントースターの中で砂糖がこげ茶色に焼けるのを待っている間に電気ケトルに水を入れ、水切りかごから自分のマグカップを取り出してすぐに沸いた白湯を注ぐ。

あたたかい湯気といっしょにそれを飲むと冷えた体も心もあたたまる。オーブントースターから変身したコッペパンを取り出してほおばる。この時間は誠だけの秘密。

 1時間30分ほど過ぎてから母親が帰宅し、洗濯物を畳んで台所で夕食の支度をする。

さっきの自分とはちがうリズミカルな音が溢れ、室温が上がり血が通う。

キャベツがニンジンが刻まれ姿を変え、フライパンの中で油が跳ねる音がして調味料のにおいが部屋に馴染んで行く。

 窓の外が暗くなり始めても誠はしばらくカーテンを閉めずにテレビ画面の中のアニメのキャラクターたちを見るフリをして、窓ガラスに映り込む夕食を作る母親の後ろ姿をずっと見つめた。何も言葉は返ってこないけれど『自分のために何かをしてくれている人がいる』

という安心感で誠は満たされたーーーー。


 ずいぶんと長い間、忘れてしまっていたこの感じ。

いや違う。忘れてしまったのではなく、覚えていてはいけない。求めてはいけない記憶。手を伸ばしてももう二度と掴むことなんて、許されないそれ。

 人間に、いや動物に嗅覚が、昆虫類と脊椎動物に聴覚がある意味に誠は想いを馳せた。視覚とは別に嗅覚や聴覚でしか揺るがすことが出来ない部分が人間にはあるらしい。なるべくそれに触れないように生きているつもりなのに、とてつもない不意打ちで攻撃される。

 普通の人間にとって幸せを感じるために必要な機能が自分にとっては不必要なのだ。

 でもその機能を不必要にしてしまったのは僕だ。誰でもなく、僕自身。


「ハイ出来ましたよ。大したモンでもございませんがな、さあひとつやって下さいな」

文司の言葉に誠は我に返った。

 すり鉢状のどんぶりの中に文司が作ってくれたラーメンが無邪気に泳いでいる。美しい氷柱の顔をした凛とした白髪ねぎの隣で、誰のいう事も一切耳を貸すつもりがなさそうなチャーシューが大きな体をスープの上に投げ出す。そんなクラスの面々をまとめようとするようにすり鉢状のどんぶりの縁の頂から担任教諭であるこぶし大の黒い板海苔が皆を見つめている。

「いただきます」

 ラーメンの手前に用意された真新しい割り箸を上下に割ると、その音と共にさっきまで目の前にいたクラスメイト達と担任教諭はスープの湯気の中に消散していった。

 箸をつける前に鶏ガラスープの匂いを全身で受け止め、麺を少しだけ箸でつまみおずおずとすすってみる。細めの縮れ麺にスープが程よく絡んで麺の小麦の味を引き立てながらもジャマしない。白髪ねぎと板海苔を一緒に口に運んでもそれぞれが上手く馴染んで軽やかに口の中で、胃の中で踊る。レンゲを使って急いでスープも口の中に流し込む。チャーシューから溢れた油が、ゆったりと身体の緊張を溶いて行く。

 みっともなく不意に出てきた鼻水をあわててすする。一番最後にチャーシューを平らげて顔を上げると文司が自分のラーメンには手を付けず、頬杖のまま誠を斜めに眺めてうっとりとしているように見える。

「ど、どうしたんですか?冷めますよ。早く食べないと麺が伸びちゃいますよ」

 無防備な自分のまま文司に観られていた自分が急に恥ずかしくなって誠は下を向く。

「私はね、うれしいんですよ。私がこしらえたこんなモンでもね、一生懸命に袋井さんが食べて下さってね」

「いや、その僕こそすみません。おいしかったんでつい・・。文司さんは何処かで修業とか、その何か料理について学ばれたのですか?僕は別に通じゃありませんのでよく分かりませんが、出汁を取って作ったようなスープだなあと思って・・。なかなか素人だとそこまで出来ないのじゃないかと思って」

 自分の分のラーメンをやっとすすっていた文司の箸が、ほんの僅か止まったような気が誠はした。

「いやあ別に大したものじゃない、年寄りのちっぽけな趣味というところですかな。最初のうちはそんなつもりじゃなかったんですがね。誰かが来るとつい振る舞いたくなるんですな。これが。袋井さんには面倒なだけでしょうが、これからもどうかひとつお付き合い下さいましな」

 しばらく会話が途切れたかと思いきや、誠が気付かない間に文司はどんぶりの中のラーメンを平らげていた。

「ああすみません、うっかりして。先日の健康診断の結果を渡しますね。えっと、その前に僕が洗い物片付けます。タダというのは良くないですから、その位はさせて下さい」

 間を空けてしまうと文司に断られてしまう気がして誠は早口でまくし立てた。

「・・そういう事でしたら、頼むとしますかな」

穏やかに微笑んではいるが、文司が自分の心をとうに見透かして、それに合わせているのだと誠には分かっていた。

 誠がいそいそと向かったそこは、料理をした後の調理場とは思えない程キレイで、文司の仕事は手際が良い。何か文司の素顔が見えそうなモノは存在しないだろうか、と少ない洗い物を片付けながら誠は痕跡を探したが、それは徒労に終わった。

「文司さん今度は、来週こちらに伺う時は僕が何か作って文司さんにごちそうしますよ。もちろん一人暮らしが長いとはいえ、僕はプロの料理人じゃないですから文司さんの口に合うかどうかは保証できませんけど。一人で食事するよりは美味しく感じると思うので」

 流しの蛇口から出続けていた水の流れを止め、ひねった蛇口から右手を離さずに文司に背を向けたまま一方的に誠は宣言した。

 文司さんが今どんな表情をしているのか見る勇気はない。また一瞬でも文司さんの中の(かげ)りを見たくはない。

「ええ、いいですとも。袋井さんの気の済むようにして下さいな。私はほどんど好き嫌いはありませんから」



 11月に入ってもまだ、誠は春間佐文司に手料理を振舞ってはいなかった。

どうしてあんな約束が口を突いて出てしまったのか。誠には自分でも理解できないでいる。

嘘を吐いたわけではない。あの時は本気だったのだ。じゃあ一体、何をどうやって?もうそろそろ文司さんの部屋に定期訪問する順番が廻ってくる頃なのに、自分は何とかその順番を後回しにする方法ばかり考えているではないか。狭苦しい自分の脳みその中でいくらそのことを撫でたり擦ったりしてみても逡巡が深まるばかりで、誠は情けなさのあまりに、今の仕事を放り出したくなった。

 2004号室の定期訪問の後、中庭の中央にあるベンチに腰をおろして正面を見ると、珍しく自分と同じ位の年齢に見える青年を誠は、上へと軽やかに舞い上がり、その後に無気力そうに脱力し崩れ落ちる噴水の水の流れの向こう側に見つけた。

「あれっ?」と誠が顔を上げて瞳を直視すると、向こう側の青年のそれと目が合った。

 何となく彼と目が合ったことに気まずさを感じて誠は会釈をしたが、相手は完黙の瞳でそれを無視したので誠に変なスイッチが入る。

 円形の歩道を約20メートル、スタスタと歩くと、取ってつけたように鮮やかに紅葉したイロハモミジの手前のベンチで、足を伸ばしてくつろいでいる彼に誠は声を掛けた。

「いやー、いい天気ですね。僕もよくこの場所で噴水を眺めながら休憩するのが日課なんですよ。貴方もここでよく休憩するんですか?」

青年はベンチに座り腕を軽く組んだまま自分の近くに突っ立っている誠を一瞥すると、何も言わずに自身が腰を掛けているベンチの右側を占領している紙の散乱を静かにまとめ始めた。

「ち、ちょっと待って下さいよ。別に僕は貴方を追い払おうとしている訳じゃありません。こんな所に若い人がいるのは珍しいですから、つい声を掛けたくなっただけです。邪魔なようでしたら僕の方がここから消えますよ」

 今度は誠の方がベンチの男に(きびす)を返して去ろうとした。

「別に邪魔じゃない。お前が此処にいたければいくらでも居ればいい。俺に遠慮をする必要はない」

 低い、陶器の底から響いたような声に驚いて誠は振り返って再び青年の表情を瞳に探したが、青年は誠の存在など本当に、自分の空間の中では一切関りが無いのだといった具合に、さっきと同じように目線を落として紙の散乱の続きをまとめようとするだけで、誠の期待した返事は見つけられない。

 カアーーッ、カアーーッ、カアーーッ。どこからか(からす)の鳴き声が轟く。


『それみたことか。お前なぞ誰からも相手にされる理由がないのだ。調子に乗って欲を出すから痛い目を見るのだ』

烏は濡れ羽色の翼をひるがえして、誠の空を飛ぶ。

 陽の光が鉛色の雲の中に姿を消されて行く、誠の瞳の白い光の反射が雲の中に隠され、みるみると生気を欠いた。

「やけに風が強いな」

 ベンチの青年が呟くのとほぼ同時に青年の手元からピシッとした用紙の一枚が、誠の後ろを振り返って固定したままの顔に“生き物”であるかのように張り付いた。

「ふがっ!」

急に視界が不自由になり誠は呼吸までもが止まる。慌てて犯人を右手でつかみ、再び雲の中から現れ始めた陽の光にソレをかざす。

何だろう?昔よく見かけた電線にすずめが何羽も止まっているような・・・。

「かせ、お前が見てもどうせ理解できんだろう」

 ベンチの青年が音も無く近づいていたことに誠は自分が森の小動物になったような恐怖を瞬時に感知する。

 誠の指先から、思いのほかふんわりと離れた用紙の一枚を無事に確保した青年の瞳と、今度こそ至近距離で誠は瞳を合わせた。

 先程までの押さえつけるような威光とは対極にある、初夏のみずうみの深緑に太陽が子午線を通過するわずかの時間、水中で光を受けて煌めくエメラルドのような爽やかな揺らぎが青年の瞳に灯っている。

 縮こまった誠の身体は一瞬で解け、今度は別の種類の息苦しさが入れ替わりに誠の身体を(あやつ)ろうとする。

 近くで見る青年は思った通りに背が高く、180センチ位はありそうで、166センチの誠は急におしりの奥がムズ痒くなった。身長のわりに小さな顔のその上に、(からす)の羽のような黒髪が、青白い肌をいっそうに際立たせている。

 恋に落ちた女子高校生状態の誠を上から下まで目だけでとらえて、

「なんだ、思ったよりトシ取ってるな」

と続ける。

「オッサンもやっぱりアレだろ。商売目的でここに来てんだろ。何だかんだ言っても、金払いがいいからなここの客は。稼ぐのにはうってつけだ」

 話し方のイメージがちょっと違うものの青年の相変わらずの低音が響き、誠は我に返った。

「キ、キミはその。何かミュージシャンなの?さっきのアレ楽譜だよね。誰かにレッスンとか、しているの?」

「は?レッスンだと」

 鼻から青年とは不釣り合いな不細工な息を漏らしながら続ける。

「本当にオッサンはこれだから話にならない。俺がそんな庶民の暇つぶしにつき合う訳が無い。俺はプロなんだ。聴衆に音楽を聴かせ、それを客は喜んで俺にカネを払う。誰でもが出来る事じゃない。選ばれた者だけが成せる業だ」

誠は特別保護居住地区にある多目的ホールの壁に貼られたポスターの面影を脳の隅で探る。

「ごめんなさい。僕そういうのさっぱりダメなんだ。疎くて。世の中の当たり前のことを知らないというか、僕がおかしいんだ。だからキミは悪くない。責任は僕にあるんだ」

「・・・・。何か、勘違いしているようだが、オッサンの世間知らずは俺と何の係わり合いもないことだ」

青年が背中を向けて歩きながら言う。

「名前を、キミの名前を。キミの音楽を聴くよ。名前を!」

 誰かにこれほど興味を持ち、執着している自分に唖然としながらも誠は青年の足元に縋り付いて話したくない気分だった。

 青年は誠の願いもむなしくそのまま立ち去ったかと思うと、黒いアタッシュケースから何かを取り出し、ゆっくりと誠の方に向かってきた。

「オッサンの世間知らずは俺には全く関係が無いが、芸術を知るのと知らぬの、とでは人の人生のその後を大きく左右する。言っておくがこれは特別だ。布教活動の一環だ」

上から目線でそう浴びせられながら、誠の手のひらの中に一枚の名刺が手渡された。

『ピアノ奏者 宇都宮ひかる』

誠は心の中で青年の名をひたすらに反芻した。

 ”ピアノ奏者 宇都宮ひかる”

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