2 「物語」上において付与される異界性の真価――よく現実にもはみ出す
異世界じゃないよ、異界だよ(何度でも略
とまあ、前段の通り、物に宿った「魔法性」は元々帰属する「異界性」に割と担保されるわけですが、同時にそれは「特権性」であり、また「継承性」を持つものであります。
何言ってんのかわかんない? 性性うるせえな? たぶんそれはそう。
「魔法性」が「異界性」に担保されるのは前段の通り、「我々の現世」=「内」での「ありえない」に対して、「それ以外」=「外」=「異界」なら、「ありえる」に反転するから。
単純な二項対立による反転なのです、つまりオセロよ、リバーシよ。黒じゃないなら白、白じゃないなら黒、ある意味単純と究極の0/1。そりゃそうだ、二項対立自体、自他の区別の時点から始まる原始的かつ基本的な考えなんだから。
で、ここで言う魔法性とは、「超自然的ルールの適用」=「物理現象や自然現象のルールの歪曲」であると言えるけど、歪めるルールは何も物理現象だけじゃない。
それが特権性。
「我々の現世」=「内」におけるヒエラルキーという社会ルールすらぶち破る以上、それは特権性と言えるのです。
物語の主人公が冴えない平民やどちらかといえばお馬鹿な庶民でも、お姫様・王子様との婚姻が成り立つのは、手にした道具や怪物退治という「外」=「異界」によって得た特権、あるいは彼ら自身が持つ「我々の現世外になりうる気質」に依るもの、と言えるのです。
「それだけの代物を持つなら、それだけ優れた人物なんだ」、「だからヒエラルキー上、下位に位置してはならない」。
あるいは「それだけの代物を持つなら」、「既存のヒエラルキーで測りえない=物差しが適用できない以上、ヒエラルキー自体の上にも下にも存在できる」
そんな特権性。
ええと、『世界神話事典 創世神話と英雄伝説』によると、フィジーの酋長は「よそもの」と呼ばれるらしいですね。初代酋長が島外部から来た人間だったとされるかららしいけど、これは異界の権威が現実に反映された例。
また、この特権性は、これは「物語」上守られる約束でもある。
『グリム童話』の「勇敢な仕立て屋」はこれがちょいと揺らぐけど、侵される事はないし。
まあ、異界性ではなく魔法性によるものではないかという視点も出てくるけど、たとえば『グリム童話』の「二人兄弟」の七つ頭の龍を退治して得た七つの舌はなんの魔法性もないけど、主人公が龍を退治した証として功績ぶんどろうとした大臣を蹴落とすので、そういうパターン的にはやはり異界性に紐づくのですよね、この特権性も。これはロシア民話にも似たパターンあったわね。
ということで特権性は以上の通りで、次、継承性ね。
これの説明ね、いつも、迷う。
継承性のお話をしてくれた大学時代の先生は、キリスト教における聖遺物の話で説明してくれててわかりやすかったんで、それを踏襲するけど。
まず、聖遺物とは、特定の聖人に縁のあるものであって、時としてその聖人の遺体そのものだったりもする。
じゃあ聖遺物が尊いものと見做される原因は何かというと、紐づく特定の聖人によるものである。
んだども、そもそも特定の聖人が尊いのはなぜ?
→それはキリスト教という基準において尊いものだから。
じゃあ、キリスト教におけるその基準が尊いのはなぜ?
→イエス・キリストの語りをもとにして作られたものだから。
ではイエス・キリストが尊いのはなんで?
→唯一神を父とする子であるから。
とまあ、なぜなぜ分析地味てたどったけど、結論は単純。
根っこが「唯一神」という「人間という我々側以外=異界」に担保された権威だから。まして、アブラハムの宗教は「人間という我々側以外=異界」で、正当性のある外は「唯一神」側以外にないし。天使も「唯一神」下だからなー。
キリスト教的世界観に沿えば、「唯一神」という権威に担保されるのは、イエス・キリストだけではない。
アダムとかアベル、ノア、モーセとか……実際に「唯一神」に直接的に関わった人間、また「唯一神」の使いである天使はその権威の担保を受けている。
契約の箱や方舟は、それぞれ、モーセ、ノアを挟んで間接的に「唯一神」の権威の担保を受けている。
これがキリスト教上、キリスト以降の時代に出たものとなると、基本的に「唯一神」の直下にはイエス・キリストしか来なくて、その下に各聖人が紐づいて、さらにその下に聖遺物なるものが来る。
まあ、もっとわかりやすいイメージでいくなら、「唯一神」という主電源に延長マルチタップぶっ刺して、そのマルチタップにさらに繋いだマルチタップの一つがイエス・キリスト(他にも同じマルチタップにモーセとか天使とか刺さってる)で、そのイエスのマルチタップから各聖人のコードが伸びるようなもんである。
すげえ俗っぽくて申し訳ねえが、つまりタコ足配線なんだ(真顔)
※なお、件の先生の講義のリアクションペーパーに書いたら次の回で「そういうこと」と取り上げられたレベルでそういうことらしいです。
そんでもって、これは別段キリスト教だけのものでもないのだ。
たとえば『古事記』の大国主が天孫降臨まで葦原中国を治めているのは、根の国から出てくる時に、その妻須勢理毘売の父にして、伊邪那岐の子で、天照の兄弟で、かつて天から追放されて八俣大蛇退治した須佐之男に「うちの娘正妻にして国を治めてろ、ばーか!醜男!」って罵られたからです(真顔)
須佐之男の権威は「伊邪那岐の子」と「天照の兄弟」、「かつて高天原にいた」にプラスして「八俣大蛇を退治した英雄」であって、その須佐之男の娘を妻にすると同時に、罵りの中でも「国を治めろ」という言質を取った時点で、須佐之男の権威は大国主の後ろ盾=大国主の権威として機能しだすわけです。さらに天孫降臨においては、この大国主が天孫たる邇邇芸が国を治めることを是とするので、大国主自身が須佐之男から言質とって後ろ盾を得たように、邇邇芸は大国主の言質をとってその権威を後ろ盾として得るわけですね。うーん、権威というバトンのリレーである。
そもそも邇邇芸は天孫=天照の孫っていう天の権威をもともと持ってて、その後山の神の娘(木花佐久夜毘売)を嫁にもらって、その息子が海の神の娘(豊玉毘売)を嫁にすんだから、この系譜を婚姻という結びつきを利用してがっちがちに権威の継承で塗り固めにきている。左官屋か?
他だと時代下って平安末期。
源頼政の鵺退治。
刀周り詳しい人には「獅子王賜った話」って言えば通じると思う、通じるよね?
『十訓抄』や『平家物語』で有名な話だけど、そもそも、「かつて似たような事があった時、同じく源氏の源義家が名乗りと鳴弦で怪異を追っ払った前例があったから」、「同じく源氏で当代の腕の立つものとして名を馳せる頼政」を呼んだという経緯がある。
これは同じ氏族間での、つまり血と名による権威の継承とも言える。まあ頼政は摂津源氏で義家は河内源氏って清和源氏の中でもちょっと系統が別なんだけど、源氏は源氏ということ。
ちなみに義家の件は『古事談』(マイナーめ説話集、一巻一話目がやばい)に載ってます。これ通読する時は気をたしかに持ってくれ、主に初手の山芋とTPOわきまえろ花山院(教科書には載せられない古文)
まあ、源氏は頼政の先祖に当たるみんな大好き源頼光が、いろいろの成立年代加味すると遡及的に伝説できてるっぽくて、そこもつつくとこれ以上なく面白いんだけど、話逸れるからヒント置いとくので考えてみてね。
ヒント:頼光の時代と近しい日本三大説話集(ざっくりそれぞれ平安後期〜鎌倉後期の範囲で成立)には酒呑童子も土蜘蛛もないけど、有名な酒呑童子絵巻は室町成立だよ!
ああ、いわゆる源平交代思想(中世以降、政権の実権を担うために源氏と平氏が交代で革命起こしてるという思想)に基づいて、戦国武将がこぞって家系図買ったって話も、虚実どちらにせよ、「源平交代思想」という物語上における、源氏と平氏の権威の継承性の現れよね。
……という感じでまあこの継承性って、現実的にも影響を及ぼしたりするのだ。まあ聖遺物も保持する教会の権威になったりするしね、ワールドワイドよ。
史は記されたものであるが故に、歴史と物語は同根であるのよな、historyとstoryも同根語だし。
結局コンテンポラリーな事物でなきゃ、歴史って物語同様、「現代を生きる我々」に対して「別の時間のこと」という外部性=異界性があるしなー。
これについては、「往にし辺=古」でも「向かし=昔」でもどっちの言葉使っても同じだからなー(語源的に「昔」の方が、「古」よりも時間軸から分離した漠然とした過去を指すとされるので昔話それ自体が外部性=異界性を強く持つ、とも考えられます)
史学者と文学者が同じ資料を見た時に、視座が違うのは「歴史という事実の根拠を見ようとする」か、「文学として読み取れるものを読み取り切ろうとする」かの差というわけです。
まあ文学研究の枠によっては史学者的視点を持たないといけないパターンもあるんだけどさ、受容史とか、背景把握とか。
それでも文学は長い目で見れば、歴史の間隙を埋めてきたとこあるしね、源頼光周りの伝説とか、そうした詰め物じみた何かだし。
とまあ、そんな感じで異界性というものは物語上一種の権威の保証として機能し、それは時として神話や伝説として、現実への保証としても機能してたのである。
外部性って無条件に客観性にも見えるから、ちょっとたまにタチが悪いなあ、と思うこともある。
外部性があっても、任意の他者の主観なら、それは客観じゃなくて自分以外の誰かの主観だよ。
……うん現代的に言うなら、自分以外の情報ソースが外部性であったりするからね。