1 「物語」における異界の機構から付与される特殊性
異世界じゃないよ、異界だよ(何度も言う)
異世界じゃないよ、異界だよ(超重要)
根の国、黄泉、竜宮、ニライカナイ、カムイモシリ、ポクナモシリ、蒿里、泰山、崑崙、蓬莱、方丈、東瀛、扶桑、メール山(いわゆる須弥山)、オリュンポス、ハーデース、ティル・ナ・ノーグ、マグ・メル、アンヌヴン、アースガルズ、ヴァナヘイム、アールヴヘイム、ニヴルヘイム、ムスペルヘイム、ヨトゥンヘイム、アヴァロン、ハンガリーの民話でいうとこのオペレンツ海の向こうetc……
いきなり何って異界の例です。山ほどあるね。
大体、別世界だったり地下だったり山だったり海とか水中だったり島だったりするんだけど。
ただ、名前付いてない場合も多いよ。「おむすびころりん」や「ねずみ浄土」の地下とか、グリム童話の「ホレおばさん」や「青いランプ」の井戸の中とかね。
あー、蜃気楼もそうかな。スペインやイタリアの方では蜃気楼は「ファータ・モルガナ」、つまりは妖精モルガンの住処って言われるし。
天とかもよく異界として扱われますね、はい。
ほら「ジャックと豆の木」(イギリス民話)とか豆の木登って天に行くじゃん。『西遊記』の有名部分以外を必修と思うのは流石に傲慢だと思うけども、あれも天って別世界じゃん。日本だとほら高天原。
……古事記の講義とった時に「が」だと程度が低い助詞だから「の」の方が適してるっておじいちゃん先生が言ってたんだけど、そこどうなんだろうね?(上代日本語はさすがに……の顔)
まあ、それは全然別の話だから置いといて。
名称が付いてるものは大体神様/妖精/仙人/巨人の世界だったり、冥界だったりする場合が多いけど、井戸の中や水中、離島、蜃気楼に山や森など、異界とはつまり「我々自身が属してない世界」の事なんですね。
厄介なのが「我々」の範囲が場合によって変わることなんだけど。
この辺りね、はちゃめちゃにわかりやすいのは、あの小松和彦先生の『異界と日本人』(角川ソフィア文庫)での説明なんですけど、「自身の属する任意の集団」と「それ以外」という二項対立の、「それ以外」が異界側なんですよ。うん、小松先生の本では日本限定だけど、色んな話を観察してればこの考え方自体はワールドワイドだってわかるしね。
例えば、この任意の集団を「生きてる人間」ってくくりにしたら、それ以外は全部異界側。神様、妖精、仙人、仏様、巨人、死者、動物全般、全部異界側。
勿論「任意の集団」なので、「生きてる人間」のくくりより小さくもできる。
わかりやすいのは古代ギリシャにおけるギリシャ人⇔異邦人かな。
※わかりやすい二項対立にするとこうなるだけで、正確には「異邦人」側=「ギリシャ人以外」で異邦人のみならず奴隷も含む。ヘレネスは市民だけだからね。
『西洋文学にみる異類婚姻譚』の中の一つだと、メデイアを異界側の存在としてみたらその異質性が解析できるのでは的なのあったしな……コルキスは古代ギリシャ的には辺境のはずだし。
そんな感じで、「任意の集団」は特定の居住場所で絞ったり、文化で絞ったり、その文脈によりけりの、「内」であって、異界はその任意の集団の「外」にあたるわけです。
まあそういう風に自他の差異を帰属する集団でわけるので、「自身の属する任意の集団」と「それ以外」の間に差が、つまり差別が生まれることもある。
が、これは全く別の話。
ぶっちゃけ「自分と違うから、敬う/蔑む」どっちも起こるし……「それ以外」であることに「付加価値」があること自体は違いなくて、ただその「付加価値」のプラス/マイナスのベクトルの違いでどっちにも転ぶ、と言ってもいいか?
「付加価値」とはそれそのものが「違い」であるわけですよ。
「付加」価値にマイナスってなんだって話になるかもしらんけど、プラスにマイナス足すと実質引き算になるでしょ、そういうこと。それ自身の価値だけではなく、それが帰属するところの価値が付加されるということになるのでね……うん。
「敬う」のベクトルが発生する通り、むしろ、物語上においては、この「それ以外」こそが権威を持ってるようなもんなのである。
たとえば、
・アーサー王伝説ではエクスカリバーは一説に「湖」の乙女から授けられたものである。
・『遠野物語』の「迷い家」で、後から流れてきた雑穀の尽きぬ不思議な椀は、迷い家=「山」にあった椀である。
・『グリム童話』の「青いランプ」で青い炎のランプは願いを叶える小人を呼び出せる青い炎のランプは「井戸の底」にあったものである。
・「浦島太郎」で地上の時間との差分を閉じ込めていた玉手箱は「竜宮城」のものである。
・『グリム童話』の「おぜんやご飯のしたくと金貨を生むロバと棍棒袋から出ろ」では、三兄弟それぞれが手にした声をかけるだけでどこからともなく食事を用意するテーブルも、糞の代わりに金貨を出すロバも、袋から飛び出て相手をめった打ちにする棍棒も、全部「兄弟達の父親以外の師匠」からもらったものである(イタリアやスペインなどの数ある類話も似たようなもん)
・ブルガリア民話の「二人兄弟」で兄弟がそれぞれ心を読む能力と朝起きると枕元に金貨が必ず一枚ある能力を授かったのは、父親が「森」で狩った金の鳥の心臓と肝臓をそれぞれ食べたから。
『グリム童話』の「踊ってすりきれた靴」でちょっと相手をしてあげた浮浪者のおばあさんが姿隠すマントくれるみたいに、逆説的に普段は蔑まれるような立場の人間が異界の権威として機能する場合もあるし、例上げるとキリがなーい。
そんな感じで、物語上での魔法性は、その因がもともと帰属する異界性に担保される、と言い換えてもいいかな。
「我々の帰属する現世」=「内」のルール上ありえないならば、その反対である「それ以外」=「外」=「異界」においてはありえる、なのである。
「内」⇔「外」
の二項対立なら
「ありえない(内のルール)」⇔「ありえる(外のルール)」
の二項対立というわけです、はい。単純なのかややこしいのかわからんわなあ。
なお、私は異界の概念が大好きです。