二傘流
食事を終え一息つき、席を立とうとしたその瞬間、階段側の窓がドドドドドと何かに叩きつけられた。
いや、叩きつけられたと言うには音が長すぎる。
見ると、窓の向こうの遠くに薄暗い靄がかかっており、そこから大量の水の矢が飛び出し、窓に轟音を鳴らしていた。
窓に降る雨水は一瞬だけ水滴を散らしてからタラタラと滝に変わって流れていく。
横雨だ。
「やあねえ、横雨よ。寄りにもよってこっち側から降ってくるなんて...」
店主も思わず嘆いている。
あの窓は西側のはずだから、先程の横雨の方向とは真逆だ。
やはり横雨の方向は一定では無いらしい。
しかし、先程の様に高台に登らなければ西側の建物の影になって俺が濡れることもないだろう。
今度こそ俺は会計を済ませ、店の外に出た。
「おいおいおい!さっき傘持ってるって言っただろ!?」
「え?」
ドアを開けてすぐに店の中からデュランが飛び出してきた。
「ああ、雨なら建物の影になるから」
「『今日は縦雨も降るから傘もってるか?』
って聞いたらさっき『うん』って言ってただろ?」
「あ、ああ。やっぱり勘違いだったみたいだ。持ってなかった。」
先程何やら喋っていたのはこの事だったのか。
俺が適当に相槌している間に雨が降ると注意してくれていたらしい。
それにしても縦雨...縦に降る雨もこの世界には存在したのか。
空に雲がかかっているから当然と言えば当然だが。
「全く...お前も結構抜けてる奴だな。
あそこに傘が売ってるから安いのを買って帰るといいぜ。」
デュランはダンケル料理店から見て右斜めの奥の方の店を指した。
確かにあの看板には傘を取り扱っていると書いてある。
「ああ、ありがとう。そうするよ。」
既にパラパラと降り出している雨に、俺は鞄を傘代わりにして早足でその店へ向かった。
300m程の距離だったが、その店の扉を閉める頃には外はザーザーと勢いよく雨が縦に降っていた。
対岸の建物の上の方を見るが、横雨の方は疎らにしか確認出来なかった。
恐らくあの壁の向こうで縦の雨とぶつかってここまで多くは到達できないのであろう。
振り返って改めて店内を見ると、色とりどりの傘が満開に咲いており、その美しさに見とれた。
先程デュランは安い傘を買えと言ったが、俺は恐らくここで大枚を払うことになってしまうだろう。
「あら、素敵な服ね。
急な縦雨で大変だったでしょう。」
声をかけたのは丸い眼鏡をかけたお淑やかな女性だった。
黒い髪を後ろにまとめ、濡れるような艶やかな髪を左右に分けている。
「ええ、傘が欲しくて。」
「そうみたいね。どんなものがお好みかしら。」
再び店内を見渡すと、異世界にも拘らず和傘や洋傘に酷似した傘が展示されていた。
傘だけではなく、天内にはレインコートが不思議なほど大量にハンガーにかかっており、それに留まらず和服やドレスの様な物まで奥に見えた。
「なるべくこの服に合うものが良いんですが。」
「そうねぇ。このフリルの付いたゴシック調の物なんてどうかしら?」
「うーん、ちょっと黒すぎるなぁ...これの薄紫ってありませんか?」
「これの紫は...ごめんなさい、今在庫が切れているわ。」
「そうですか...残念だ。」
手渡された傘をまじまじと見るが、少しフリルが派手すぎるな。
俺はもう少し落ち着いた感じのものが好みだ。
「あちらはどうしてあんなにレインコートが飾ってあるんですか?」
「ああ、レインコートの方が良かったかしら?
あなたここの人じゃないみたいだけど、横雨を知らなかった感じかしら?」
「ええ、まあ。」
横雨を知らない地域があるのか?
てっきりこの世界の全てで横雨という特殊な《ルール》が適用されていたのだと思ったが。
「ほらここって縦雨もあれば横雨もあるじゃない?建物が有ればいいんだけど、外の平原に出て二つの雨が同時に降ってきたら、縦からも横からも濡れちゃうのよ。
そんな時に傘一本だけ差してても意味ないでしょ?」
「確かに。」
「だからレインコートを使う人も多いのよ。」
「なるほど。じゃあ、あの奥の和服とかドレスは何なんですか?」
言った時に『ああ、しまった。』と思った。
この世界で『和』服などと言っても通じないのだ。
何せ日本が無いのだから。
何か言い換える言葉は...と考えていた時だった。
「ああ、あの和服ね。」と彼女は切り返した。
一瞬、この世界にも日本が存在するのかと思ったが、恐らく俺がこの世界に来てから何故か発動している翻訳機能が、和服と言うものを俺の意図した通りに伝達しているのであろう。
この調子だと和傘も通じるだろうな。
何とも都合がいいが、それを深く考えるのは後にすることにした。
「あの和服は魚皮衣と言って、魚の皮で作られた服なのよ?珍しいでしょ?」
「ホントだ。表面がザラザラしてる。初めて見た。」
魚皮衣というのは元の世界にもあったものだ。
昔の中国やアイヌでよく作られていた。
これは昔博物館で見たアイヌの『チェプル』に丁度よく似ていた。
これらは魚の皮である為、撥水性も抜群なのだ。
なのでここに置いてあることも一応は説明が付くだろう。
「こっちのドレスはアリュステン出できているのよ。」
「はい?何ですって?」
「アリュステンよ、アリュステン。」
アリュステン?少し考えてみたがやはり聞いたことが無い。
「これはガリアンで取れる異物から織り込んだもので超高級品だから、ちょっとオススメ出来ないわね。むしろなんで雨避け程度の役割にとどめてるのか不思議なくらい。
先代がたまたま手に入れてから300年間、この店が出来てからずっと売れ残ってるわ。」
「300年!?」
この店の歴史にも驚いたが、結局アリュステンとは何だ?ガリアンというのは地名だろうが。
またまた分からない言葉だらけだ。
だが、少し考えて自分なりに推察することは出来た。
恐らく俺がこの世界で聞く、今までに聞いたことのない言葉というのは、現地そのままの言葉なのではないか?
つまり、それは元の世界に存在していない言葉や概念で、翻訳機能が十分に働いていないということではないだろうか?
日本でも今まで概念のなかったキャラメルやチョコレートはそのまま英語で使用されているし、それと同じ様なものか。
「まあこのアリュステンのドレスはこの展示ケースから出してあげられないから触れないけど。
記念に良く見ておくといいわ。」
「そうしておきます。」
あまり詳しい説明は無かったな。
魚の皮と同じくらいアリュステンとは周知の素材なのだろうか。
「それで、結局どれにする?」
「ああ、そうでしたね。うーん、俺はやっぱり傘がいいな。」
「そう、じゃあ傘なら二つ買う方がいいわよ?」
「え?二本?」
「ええ、横雨の降る地域では二傘流と言って、縦雨に対して地面と平行に差す傘と、横雨に対して地面と垂直に差す傘を同時に使用する傘の持ち方があるの。
まあ、腕は疲れるし、横雨が複数発生していたら雨が降る方向は一方向じゃなくなるから、今は伝統を慮る人以外はあまりやってる人はいないけどね。」
「へぇ、そんな持ち方があるのか。」
それに加えて横雨が複数発生することもあるという情報も手に入れることが出来た。
確かに先程から降る方向の決まっていない横雨が同時に発生したら、横に一本傘を差していても、他の方角からの雨を受けてしまうだろう。
しかし二傘流か。
俺は常日頃から触れたことの無い昔の伝統に対して強い憧れがあったのだ。
この異世界という全てが体験したことの無い世界に於いてもそれは同じだ。
「じゃあ二本頂きたいです。あ、その傘。」
俺は閉じられたまま展示されていた濃い青の傘を見つけた。
彼女に許可をとって俺はその傘をパッと開くと、そのお淑やかな装飾に見とれた。
それはお椀の様な底の深い造形で夜空の様な青を基調とし、傘の円周に慎ましくゴシックな黒のフリルがあしらわれていた。
身の軽い少女が差していたら風で飛んでいってしまいそうな程に立体的な存在感があった。
「では、これにします。」
「お客様、お目が高いです。そちらは日傘としても普段使い出来る代物で、そちらのお洋服にもピッタリですね。もう一本はどうなさいますか?」
俺は少し考えて入店した時から気になっていた和傘を手に取った。
硬い木製の骨に硬い和紙の張り具合。
開かれた状態からビクともしない存在感に俺は威圧された。
赤色を基調として螺旋状に黒い炭が撒き散らされている。
なんて美しいんだ。
「これにします。」
「流石お客様!そちらはかなり頑丈な和紙と骨が使用されていて、強い風が吹いても穴が空いたり折れたりすることは滅多にないんですよ?」
「へ〜そうなんですか。じゃあお会計を。」
「そうです!お客様、こちらのベルトなんかも如何でしょうか?」
「ベルト?」
彼女はいつから手にしていたのか、暗い茶色をした革製のベルトを持っていた。
輪の1点にだけ何かを固定する様な留め具が二つ付いていた。
「はい!二傘流をする方はこのベルトに二つの傘を帯刀する様に携帯するのが基本ですよ!?」
彼女は俺の腰にベルトを回して二つの傘を固定させた。
腰の左に傘が二つ刺さっている状態で正に二刀流と言った感じだった。
「あ〜じゃあこれも追加で。」
「お目が高い〜!!」
俺は会計に向かい、財布を用意した。
ええと、今の所持金が4448ガレルだから...
「それではこちらの洋傘が880ガレル、
こちらの和傘が940ガレル、
二傘流用のベルトが228ガレルで、合計2048ガレルですわ!!」
「に、2048ガレル...」
「ええ!どれも高級品ですから!!
これでも安く抑えてるんですよ?
もちろん払えますわよね???」
「...はい。」
所持金の半分をたかが傘で消費してしまった。
オマケに彼女の威圧感は掴んで離さないといったようで俺は会計の取り止めなど出来るはずもなかった。
俺は途中から彼女が妙に声高な猫撫で声になっている事に気が付くべきだった。
しかし、確かにこの手触りや質感は高級品のそれだった。ベルトに固定された腰の左の重みがその感覚を裏打ちしていた。
物というのは高いからこそ大事に取り扱うし、その価値に見合った品に見えてくるのだ。
例えこの品がセールで格安になっていたものだったとしたら、俺はここまでこの傘に愛着は湧いていなかっただろう。
そう自分を慰め、早速腰の金具を一つ外して傘を差したが、既に空は晴天だった。