誰でもいいから幸せにしたかった
老人は世界広しといえど、もうじき死を迎える人間のなかで、自分が一番幸せだと確信していた。彼の隣には、長年連れ添った妻が同じようにベッドの上で静かに横たわっている。何か伝えたいことがあるらしく、看護師の手を借りて電話を掛けてきた。
「……あなた、聞こえますか?」
「……ああ、聞こえているよ」
「……私と過ごした60年間、あなたは幸せでした?」
「……ああ、本当に幸せな人生だったよ」
「……良かった……私も幸せです……あなたに伝えたいことがあるんです……」
「……なんだい?」
「……私…………誰でもいいから幸せにしたかったんです……」
「……ん?」
何かの聞き間違い、あるいは疼痛緩和のため投与されているモルヒネで意識が朦朧としているのかもしれないと疑ったが、老人はそのまま妻の言葉に耳を傾けることにした。
「……いきなりこんなことを言っても意味が分からないでしょうね……私は若い頃から『愛は清く尊いものだ』という考え方が嫌いだったんです……愛なんて人間が子孫を残すための歯車みたいなものでしょう……」
「……しかも、その歯車がいびつなせいで結局互いに憎しみ合うことになったり、他の誰かを傷つけたり、苦しめたりするという欠陥品じゃないですか……それなのに愛が人を幸せにすると本気で信じられているのがとても不愉快だったんです……」
「……だから私は決めました……愛なんかに頼らず、誰かを幸せにしてみせると……あなたと出会った時、この人しかいないと直感しました……あなたの見た目も、声も、性格も、きっとこれから何十年一緒に暮らしても好きにならない自信がありましたから……」
「……事実、あなたと過ごした60年間の中で、一瞬たりともあなたを愛しいと思ったことはありません……それでも、あなたを幸せにするための努力は怠りませんでした……あなたが満たされた表情を浮かべるたびに、私は内心勝ち誇っていました……ほら、愛なんかこれっぽっちも持ち合わせていなくたって、誰かを幸せにできるじゃないかと……」
「……私は、自分の正しさを証明できて、本当に幸せです……あなたには、心から感謝しています……こんな私と夫婦になって……幸せになってくれて……本当にありがとうございました……」
妻が最後の言葉を絞り出して間もなく、彼らはほぼ同時に息を引き取った。看護師は途切れ途切れな会話をうまく聞き取れなかったが、彼らは最期のひとときまで互いに愛と感謝を囁き合っていたに違いない、これこそ理想的なオシドリ夫婦だと、安らかな二人の笑顔を眺めながら、ひとり感激していたのだった。