〈赤月〉
急降下のあとレファと合流し、オットーは空島へ逃げ帰るよう提案した。
雷雲の向こう側から赤色の雲が徐々に迫ってくる。
「私は怪物なんて見なかったよ? ほんとにいたの?」
「居た! レファはもう高度を下げてたでしょ? 下からじゃ見えないんだよ、あの赤い雲より上にいないと中にいる怪物は見えないんだ!」
「やっぱ空気がなさすぎで酸欠だったんじゃ?」
「違うって! 意識ははっきりしてたよ!」
「……まあ、どっちにしても帰ったほうが良さそうだし、帰ろっか」
レファはワイバーンを雷雲の方角に向けた。
オットーが背後を振り向く。
赤い雲の下では、赤色の雨が地上に降り注いでいた。
「赤雨を降らせてるのは、あの化け物だったんじゃないか?」
「うーん、空島じゃなくてお医者さんのとこに行ったほうがいいのかなあ」
「違うって! ……だいたいほら、赤雨が降ると魔物が湧いてくるだろ? それが自然現象じゃなくて、魔物の親玉みたいなやつがいるとしたら?」
「んー、そだねー」
まともに取り合う気はないようだった。
そうこうしている間に雲が迫ってきて、周囲が赤色の濃霧に染まっていく。
オットーの皮膚がびりびりと嫌な予感を伝えてくる。
彼は神経を集中させて風を読んだ。
「居る」
「え?」
「左旋回! 今すぐ!」
直後、赤色の霧の奥から巨大な触手が振り下ろされる。
風を切る轟音と余波。間一髪でかわしたが、その一撃では終わらない。
「わーっ!?」
「急降下! ……しょ、触手だらけだっ!」
何も見えない赤霧の奥に、無数の触手が蠢いている。
その一本一本が強烈な気配を放っていた。
(か、敵わない! 明らかに強すぎる……!)
その一つ一つが独立してしなり、二人を叩き落とそうとした。
オットーが風を読み、くぐり抜ける隙間を探す。
「緩上昇で右旋回、フェイントをかけて左!」
「聞いてないよー! 何なのこれー!」
戸惑っていてもなお、レファの機動は鋭く、そして速い。
三次元的な動きをフル活用して、速度を殺さないように飛んでいく。
速度を保ちながら逃げることにかけては、オットーよりも上だ。
(この試作機で無理に戦うより、このまま二人で逃げた方が良さそうだな!)
前後左右に激しいGがかかり、試作機の固定具が軋む。
周囲は完全に赤い雲で覆われ、激しい赤雨が体を打った。
それでも集中を切らさずに、オットーは風を読み回避の指示を続ける。
レファと彼女のワイバーンは、その指示に寸分違わず答え続けた。
「どうなってるの!? 今どこなの!?」
「激しい乱流が前方にある! 空島の雷雲が近い……あっ!」
「なにっ!?」
「気配が一気に増えた……魔物が来る!」
攻撃魔法を放ちながら、飛行する魔物が背を追ってくる。
「撃たれてる! 下に!」
「〈ウィンドシールド〉!」
レファは回避せず、体を捻って後方に風の盾を張った。
火球や風弾が盾にぶつかり弾ける。魔物が迫る。
赤い霧の奥にシルエットが見える。ハーピィだ。
普通は白色の羽毛が赤く染まっている。普通の個体ではない。
触手が来ていた。魔物に集中していたオットーの探知圏外。
ハーピィを叩き落としながら、ものすごい速度で彼らに迫る。
警告には遅い。
「っ!」
レファが反射で手綱をさばき、ワイバーンが高速で旋転する。
(なんて反応速度だ! 流石だな……!)
「ふー、今のは危なかったー!」
「ごめん、気づくのが遅れた!」
「いいから、次はどっちに!?」
左右へと激しく切り返しながら、徐々に雷雲へと近づいていく。
攻撃の手は緩まない。
レファが振り向き、〈エアブラスター〉で数匹のハーピィを叩き落とした。
「ハーピィが何でついてこれるの!? 速すぎるよ……!」
「このまま雷雲に突っ込んで、空島に逃げ込もう!」
「……駄目だよ! 前は突破できなかった! 上を迂回しないと!」
「上昇して速度を失ったら、それこそ的だ! やるしかない! 大丈夫だ、僕が道を探す!」
レファが振り返り、オットーを見つめた。
「私たちの命を預けてもいいのかな」
「もちろん」
「……分かった。私たちの命を預けるんなら、きみが世界で一番ふさわしい相手だしね! 生き残れたら一緒に美味しい飯でも食べよう!」
「そこはせめて、僕におごるって言ってくれよ。食い意地が張ってるなあ……」
「私もカルマジニちゃんも、大食いが自慢だからね!」
「そういう話じゃないって!?」
レファは小さく笑いながら信頼の眼差しを向け、正面に向き直る。
周囲を覆う赤色の雲が急激に暗くなった。雷雲だ。
「もう少し左に! 突風を左回転で受け流して、右に回避!」
前方の風を読みつつ、背後へも意識を振り分ける。
触手の怪物も魔物もまだ追ってきているが、激しい乱気流に阻まれて攻撃の狙いは定まっていない。
進むにつれて向かい風が強くなり、風を読んでも速度が落ちていく。
空島から風が吹き出している以上、これを避けることはできない。
だが同時に、怪物や魔物も風に押し戻されて寄ってこれないようだ。
あとは雷雲を突破さえすれば、ひとまずは逃げ切れる。
「……頑張れ! あとちょっと!」
レファが彼女の翼竜に語りかけている。
だが、どれほど必死に羽ばたいても進むことができない。
「ねえ! どこかに風の弱い場所はないの!?」
「ここが一番弱い場所だよ!」
「そんな!?」
後方には怪物が待ち構えている。引き返すのは自殺だ。
何か推進力を足せるような手があれば……。
「……レファ! ロープって積んでる!?」
「鞍の後ろに結んであるよ!」
オットーはロープの一方を鞍にくくりつけ、もう一方を自分に結んだ。
「え、何するの!?」
「引っ張るんだよ!」
「この風の中で!?」
オットーは試作機の固定を外し、ワイバーンの背を蹴った。
激しい風の中を滑らかに泳ぎ、〈セレスティアルウィング〉が高く唸る。
「す……すごっ」
雷雲から魔力を吸い取り、一気にオットーがワイバーンを引っ張った。
勢いを増して、雲の壁を貫く。
「やったー!」
「よし、抜けた!」
ロープをたぐり、彼はワイバーンの背に戻った。
空島を覆う雷雲の上に、赤色の雲がたちこめているのが見える。
だが、中に入ってくる様子はない。周辺の乱気流に阻まれているようだ。
「助かったー! ねー、私たち完璧な連携じゃなかった!?」
「そうだね。ここまで上手くいくとは」
「で、どこにご飯食べにいこうか?」
「その話をするのはまだ早いんじゃない!?」
背後を確かめながら、工房直結の滑走路へと向かう。
端にアイテラとシリンが座り、赤い雲を見上げていた。
どすん、と着地したワイバーンからレファが飛び降り、掃除用具じみたブラシを持ってきてワイバーンの体をこすりはじめる。
飛行中についた汚れを落としているようだ。
くるるぅ、とワイバーンが気持ちよさそうに鳴いている。
(仲が良さそうだな……)
いったん協力できたとはいえ、レファの相棒はあのカルマジニとかいう真紅のワイバーンであり、オットーではない。
前から知っていた事なのに、なぜか彼は少しだけ寂しさを感じた。
「おい」
試作機を持ってぼうっとしていたオットーを、アイテラが呼び止めた。
「まだ〈赤月〉が生き残っているではないか。どういうことだ?」
「赤月?」
腕を組んだ黒猫が、赤色の雲に視線をやった。
……確かに、あの半月状の透明な怪物は、赤い月に見えないこともない。
「そうだ。あれがハイエルフの文明を滅ぼし、あらゆる種族を魔物との生存競争に追い込んだ。全世界の敵だ。てっきり滅んだものかと思っていたが……」
「えっ、と」
一応は元貴族であり、それなりに学者と話すこともあったオットーですら、噂すら聞いたことのないような話だった。
「じゃあ、あの赤い雨って自然現象じゃなくて、あの怪物がやってるってこと?」
「そんな知識も失われたのか? 道理で、この島に来れるものが現れるまで長い時が経つわけだな」
オットーは遠くの赤い雲を見た。あの雲が消える様子はない。
……彼は視線を感じた。まだ見られている、ような気がする。
「せっかくだ。お前らに講釈をしてやろう。おい、小娘も来い!」
「はー? それが人にものを頼む態度なのー?」
「頼んでなどおらんわ! やつの生態を知らずに困るのはお前だろうが!」




