赤雨
オットー・ライトは羅針盤の指すほうを目指して東へ飛んだ。
ヴェストエンデ辺境伯領を抜けて、北の海に面した豊かな商業共和国群を飛び越え、更にいくつかの小国を跨ぐ。
急ぐ旅ではなかった。ギルドで依頼を受けて寄り道したり、シリンを連れて観光に行ったりと、彼はのんびりしたペースでの移動を続けている。
東へ行くにつれて、だんだんと気候が変わってきた。
空気は乾き、雨は少なくなり、気温も少しづつ下がってくる。
地平線まで何もないような草原を見る機会も増えてきた。
それでも道路はしっかりと続いているし、村が途絶えることもない。
都市間を結ぶ陸上の交易路が世界を東西に結びつけている。
(間違いない。羅針盤の針が上を向いてきてる。針が下を指してたのは、目的地が地中にあったわけじゃなくて、この世界が丸いからだ……)
懐から羅針盤を取り出したオットーが、針の方向を確かめた。
かつて下を向いていた針は、今やはっきりと水平線より上を向いている。
間違いなく空の上を指しているようだ。
「きゅいっ」
少しだけ体の大きくなったシリンが、座席から身を乗り出して鳴いた。
急速に雲が発達している。それも、赤色の雲が。
明らかに自然現象ではなく、何らかの魔法によるものである。
「げ」
この世界に生きていれば、赤色の雲が意味することは誰でも知っている。
禍々しい魔力を含んだ”赤雨”が降るのだ。
この雨は魔物を凶暴化させる上に、新たな魔物を生み出す効果すらある。
よほどの命知らずでもなければ、赤雨の降る屋外など移動しない。
慌ててオットーは近くの村に降りた。
慣れた様子で説明と交渉をして、ギルドカードを見せて身分を証明する。
「おお、Cランクの冒険者さんか! そんな方が村に泊まってくれるんなら安心だべ!」
交易路沿いにある村は、基本的に旅人の泊まる宿場町だ。
よそ者を泊めるぐらいは慣れたもので、めったに問題は起こらない。
オットーは宿屋に泊めてもらった。
「……雲が分厚いな」
部屋の窓から外を眺めて、彼が呟く。
立ち込める赤黒い雲が消える様子はない。
「っと、あれは!」
棍棒を握りしめたゴブリンの類が外をうろついていた。
村の自警団らしき人々が家の陰から弓矢を構えている。
彼らを手助けするべく、オットーは窓から〈エアブラスター〉を放った。
ゴブリンが猛烈な勢いで吹き飛ばされて即死する。
「はあー、すっげえやあ」
「C級冒険者様ともなると、魔法の威力も段違いだべや」
「どうも」
貴族社会を基準にすれば、この程度はまだ並の魔法だ。
だが、”並”の威力が出ていることは異常だった。
〈エアブラスター〉は威力を犠牲に弾速や精度を高めた魔法であり、そんな魔法の威力が高くなってしまえば、もはや欠点はない。
(なんか、知らない間にずいぶんレベルが上がってるような……?)
特に激しい戦闘をしたわけではないのに、ヴェストエンデ辺境伯領に居た時よりも魔法の威力が増している。
(魔法を使ってれば魔法の才能がレベルアップするみたいに、空を飛んでるだけで〈大空の支配者〉はレベルアップするんだろうか?)
何にせよ、オットーが強くなっていることは確かだった。
それからオットーは、村長から依頼されて警備に加わった。
シリンが「きゅっ」と鳴き、全体に回復魔法を掛けて村人たちの怪我を癒す。
「お、おおっ! ありがてえべ!」
「C級冒険者様ともなると、すげえ生き物を連れてるもんなんだなあ」
「いや、ドラゴンを連れてるのは僕ぐらいだと思うけどね……」
どこからともなく湧いてくる魔物を、オットーが一撃で吹き飛ばし続けた。
今の彼はそれなりに地上戦をこなせるようだ。
「おうい! 〈レッドオーガ〉が湧いたべ! ありゃ危険度A級だ!」
見張りが走ってくる。その場に緊張が走った。
村が全滅してもおかしくないほどの脅威だ。
筋肉隆々の巨大な鬼が、村の外から迫ってきた。
「オットーさん……その、無理にとは言わねえから……せめて時間を稼ぐのを手伝ってくだせえ! 赤い雨が上がるまでだけでええんで!」
「いや。僕が倒す。みんなは屋内に隠れていて。シリン、護衛よろしく」
「きゅ」
「えっ!? C級一人でA級の魔物に当たるなんて、無茶だべや!」
「大丈夫。ほら、僕は空を飛べるしさ」
オットーは〈ライトフライヤー〉の元に走った。
村人たちが屋内に隠れ、一人で外にいるオットーを赤い鬼が追ってくる。
(や、やっぱ時間稼ぎを頼めばよかったかな。風で飛ばされないように固定しちゃってるし、離陸準備が間に合わない……あ!)
彼は〈ライトフライヤー〉の翼に吊った荷物入れを開いた。
中に折りたたまれた小型グライダーの〈リリエンタールⅡ〉を背負う。
しばらく使っていなかったが、整備は欠かしていない。愛着のある機体だ。
「〈セレスティアルウィング〉」
くんっ、とオットーは鋭く加速した。
〈リリエンタールⅡ〉は小型軽量だ。その利点は大きい。
「〈デフレクト〉」
風を捻じ曲げ、無理やりグライダーを機動させる。
昔のオットーでは不可能だった芸当だ。
(……さて。水平飛行で〈セレスティアルウィング〉を当てにいくと、近くの民家までまとめて切っちゃうな……)
この大魔法で生み出された翼は異常な切れ味を誇っている。
速度比例で切れ味が増す性質があり、静止状態ではなまくら未満だが……。
グライダーで飛んでいれば、魔物を両断するぐらいの威力は十分にある。
(”ナイフエッジ”で行くか)
オットーは九十度ロールを打ち、地面に対して魔法の翼を垂直に立てる。
……低空でこの姿勢を長く保つのは一流の翼竜騎士でも不可能だ。
高難度の曲芸飛行であり、グライダーで可能なはずがない。
だが、今の彼は繊細かつ強引な制御で無理を通すことができた。
背負ったグライダーが小型なことも、無理の効きやすさにプラスだった。
(大魔法へと持てる限りの魔力を注いで……超高速で!)
切れ味の増した〈セレスティアルウィング〉が地面に触れた。
熱したナイフでバターを切るがごとく、魔法の翼が土を切り裂いている。
「グオッ!?」
そのままの勢いでするりと〈レッドオーガ〉を両断した。
あの程度の魔物は、空さえ飛んでいれば敵ではない。
オットーは魔法の翼を消し、急旋回で減速して滑らかに着地する。
「ふう。雨も弱くなってきたし、これで終わりかな……」
オットーは〈リリエンタールⅡ〉を畳んだ。
しばらく使っていなかった小型グライダーだが、これにはこれの利点がある。
(……小さい方が強度を上げやすい。レファの最高速についていこうと思ったら、ベースは〈リリエンタールⅡ〉の方がいいかもしれないな……)
羅針盤の先を確認した後で、彼は研究開発に集中するつもりだ。
拠点を作り、冒険者として自ら素材を集め、新しい機体を作る。
レファに負けないぐらい速くなる、というのが当面の目標だ。
「え、えらいこっちゃ! 危険度A級の魔物が、あんなにあっさり!」
隠れていた村人たちが出てきて、オットーを囲んだ。
「何じゃあこりゃ! 強すぎるべ、実はS級なんでねえか!?」
「いやあ、別に。僕はただのC級ですから。……ええと、村長さん? 危険な魔物を倒したことですし、多少の報酬を頂けるとありがたいのですが」
「もちろん! あんたは命の恩人だべ!」
赤雨が消えたあとで、彼は村人たちの歓待を受けた。
いくらかの報酬に加え、たらふく村の名物を食わせてもらう。
断りきれずに酒も飲まされてしまい、彼は赤ら顔で宴会の場を後にした。
「うー、シリンー……回復魔法かけてー……」
「きゅいー」
優しい白光に包まれて、酔いが一気に冷めていく。
「ふう。ありがと。何で田舎の人ってあんなに飲ませようとしてくるんだろ」
「きゅー、きゅ」
「好意だって言いたいの? 分かってるけどさ。苦手なんだよ、ああいうの」
酔い覚ましに少しだけ歩く。
「ま、たまにはこういうのも悪くないか……」
旅の思い出が増えたのは確かだよな、と彼は思った。
「きゅんきゅん」
うんうん、と言いたいのか、シリンが頷いている。
……ドラゴンという種族は、喋るのが苦手なのだろう。リントヴルムたちも、みな咆哮に魔力を込めてテレパシーじみた手段で言葉を伝達していた。
(喋るための喉じゃないんだろうな。炎の息を吐けるぐらいだし。あ、そうだ)
「シリンってみんなの言葉は分かってるんだよね?」
「きゅ」
「文字の練習とか、してみる?」
「きゅい!? きゅーっ!」
オットーの足元をくるくる回って、シリンが喜びを表現した。
その動きをぐるぐる目で追っているうちに、また気持ちが悪くなってくる。
「うっぷ。か、帰ろうか……」
「……きゅう」




