飛翔
崖をくり抜いたような横穴からは、火山みたいな硫黄の臭いがした。
竜の臭いだ。
オットーは顔をしかめながら、奥へと進む。
鳥の巣のような籠の中に、卵が五つ並んでいた。
けれど、そのうち二つは変色している。
孵化に失敗して、中で竜の雛が死んでしまったのだ。
「……かわいそうに」
雛もかわいそうだが、父親の竜もかわいそうだ、とオットーは思う。
卵を温めて孵化させるのはメスの竜の役割だ。やり方を知らないのだろう。
彼は卵を抱えてみた。なんとか胴体に抱けるぐらいの大きさだ。
それほど重くもない。行ける、と判断して、彼は入り口へ戻る。
背中からグライダーを降ろして、翼を展開した。
(まずは卵を固定して……)
ベルトと柔らかい布を使い、グライダーから吊るすように卵を固定する。
その卵の下から滑り込むようにして、オットーはグライダーに掴まった。
(高いな、ここは。翼なしで落ちれば、間違いなく死ぬ)
崖際から、彼は足元を見た。
山の斜面がうねりながら街の方向へ下っている。
上昇気流を捕らえながら飛んでいけば、かなりの距離を飛べるはずだ。
一瞬、オットーの脳裏を不安がよぎった。
卵を吊ったことで空気の抵抗が増えて、バランスが崩れてはいないだろうか。
もし落ちたら、ミーシャが居るとはいえ、助からないかもしれない。
(いや。大丈夫だ)
翼の下に物を吊っても、あまり影響は出ない。
実験を繰り返し、彼はそういう結論を導いている。
……それでも、全ての不安を消し去ることはできない。
最終的には、不安を抱えたまま飛び出すしかない。
それができるぐらい自分を信じられるかどうか。それが問題なのだ。
一歩目というものは、いつだって不確かだ。
何かを信じて、未知の暗闇へと飛躍するほかない。
(僕は空が飛びたい。そのために努力してきた。だからきっと、大丈夫だ)
彼は自らに信を置いた。
他人からの評価や社会的な地位や常識ではなく、自分の力を信じることを選んだ。
それは孤独な、しかし自由で力強い生き方だ。
「行こう」
彼は少し下がり、一切の躊躇なく助走して勢いをつける。
空を飛ぼうとするのは、決して無謀な試みではない。
これはオットー・ライトという男が重ねてきた努力の結晶なのだ。
ゆえに、彼は自分を信じることができる。
(……飛べっ!)
崖際から、空へと飛び込む。
わずかな上昇、それからの落下。
まずは速度を乗せて、風を掴んでから上がればいい。
塔の上から飛んだときと同じように。
そんな調子で飛び出した彼を、ミーシャが心配そうに見つめている。
「ちょ、ちょっと!? 落ちてない!?」
彼女は落下地点に回り込んだ。いざとなれば、オットーを受け止めるつもりで。
心配している彼女と正反対に、オットーは楽しそうな笑顔だ。
「ほ、ほんとに落ちるんじゃ……!」
「大丈夫!」
ぐっ、と彼がワイヤーを引く。たわんだ翼が、急降下から一気に上昇へと転じる。
身構えているミーシャの頭上を、悠々とオットーが飛び越えていった。
「と……飛んだ!?」
「だから、飛べるって言ったでしょ!」
あっけに取られているミーシャを残し、彼は滑空していった。
少年が飛んでいる。翼を背負って。
ありえない景色だ。魔法ならまだしも、翼で? 人間が?
「……すごいな、キミは……!」
ミーシャもまた笑顔を浮かべ、彼が空を飛んでいく様を見送った。
無事に空中へ飛び立ったオットーだが、あくまでもこれは滑空だ。
動力がない以上、いつかは速度を失い、地面に落ちてしまう。
そうならないためには、上昇気流に乗って高度を稼ぐ必要がある。
(……あった!)
彼は理想的な南向きの斜面を見つけ、ワイヤーを引いて針路を変えた。
太陽に熱された地面が生み出す上昇気流、と、風が斜面を登ることで生まれる斜面上昇風の合わさった風へと乗り、ぐいぐいと登る。
(いい景色だ……!)
視点が高くなったことで、麓までもが一望できるようになった。
山の谷間を下っていく川面を、オットーが目で追う。
重力に引かれて曲りくねった先に、城壁に囲まれた街があった。
ロングシュタット。ロング家の治める街だ。
あれほど活気のある街なのに、上空から見ればちっぽけな点にしか見えなかった。
世界は広い。その言葉の意味を、オットーは身を持って実感した。
街から伸びる街道の先に、魔法学園のある王都が見える。
そしてその向こうには、無限にも思える草原が広がっている。
(……あそこまで飛んでいけたら、どれだけいいか……!)
けれど、今の彼は空を自由に飛ぶ術を持たない。
だが、いずれ、必ず。
(気の向くままに、地平線の彼方まで飛んでいってみせる!)
そのためにはまず、竜の卵を持ち帰り、報酬の大金を稼ぐことからだ。
オットーはワイヤーと重心移動でグライダーを操り、川から離れて飛んだ。
……川の水は冷たい。ゆえに空気が冷やされ重くなり、下降気流が生まれる。
川を辿れば街に着けるが、その真上を飛ぶのは避けたほうがいいのだ。
山の不安定な気流に煽られながら、オットーは街へと向かう。
グライダーが壊れそうな前兆もない。いたって快調な飛行だ。
……彼の周囲が、いきなり暗くなる。
巨大な存在が太陽を遮ったのだ。オットーが振り返り、正体を確かめる。
「グオオオオッ!」
竜の巣から飛び立っていったはずのドラゴンが、彼の卵に狙いを定めていた。