手向けの花と羅針盤
全てが氷で作られていることを除けば、ごく普通の部屋だった。
机と椅子。本棚。ベッド。それだけだ。
(うわ、毛布まで氷だ。しかも温かいし、柔らかい……)
オットーの足元をくぐり抜けて、シリンが氷の毛布に飛び込んだ。
「きゅいー」
透明な氷の毛布にくるまって、満足気に寝転んでいる。
「あの、グレイさん。一つ、宝を貰ってもいいって話でしたよね」
「うむ。その毛布にするかね」
「そうですね。シリンも気に入ってるみたいだし」
「きゅーいー!」
「うわっ、とと」
シリンがオットーに勢いよく抱きついた。
喜んでもらえたようだ。
改めて部屋を見る。あまり細かい調度品はない。
古代のハイエルフが研究所を引き払ったとき、全て持ち帰ったのだろう。
唯一、机の上に置かれた書き置きがその例外だった。
「これは!?」
グレイが書き置きに飛びついた。
彼はオットーのために内容を読み上げる。
『これを読んでいる者がわたしであればいいが、おそらくそうはならないだろう。君がハイエルフならば、ご苦労さま。ここに〈魔王〉への対抗策はないので、他を探して欲しい。もし君がハイエルフでないようなら、おそらく長い時が経ったのだろう。世界の様子はどうかな? 魔物には抗えているか? そうだといいな』
興奮した様子のグレイが深呼吸して、続きを読み上げる。
『君たちはどういう者なのだろう? 政府の調査員? 盗掘者? 難民? それともまさか、魔物か? いずれにせよ、好きに使うといい。エントランス奥の扉に私のカードを通し、地下に降りてメインの魔力源を再起動すれば、扉のロックは外れる。研究設備は何も残っていないが、家ぐらいにはなる』
グレイが興奮していた。
研究設備は残っていないが、魔力源とやらは残っているらしい。
『では、幸運を祈る。……カードの隠し場所についてはすまないと思っている』
読み終えたグレイが、書き置きを置いてさっそく部屋の外に出た。
エントランス奥の扉に向かうつもりなのだろう。
「ん?」
何かに気付いたオットーが部屋に残り、書き置きを裏返した。
古代語ではなく現代語で、大きく落書きがされている。
『大空を取り戻さんと望むなら、地下の青壁の羅針盤を追え。S.R』
「なんだ? 大空を……?」
「きゅい?」
この落書きは、表の書き置きにくらべてかなり薄れている。
相当な時間が経っているようだ。
意味はよく分からないが、オットーたちが最初の来客ではないらしい。
- - -
エントランス奥の扉に研究所主任のカードを通すと、扉がスライドして開いた。
赤い光に照らされた不気味な氷の通路を進み、長い階段を降りる。
老魔術師グレイが肩で息をしていた。
精神は大興奮していても、さすがに肉体がついてこないようだ。
「今日はここで切り上げますか? また明日に改めて来ればいい」
「明日……明日か。明日があるだろうか?」
「……え?」
「いや、冗談だ。すまないね。帰るとしよう」
「いえ。僕も長距離飛行の後で、かなり疲れてるので……」
彼らは老魔術師グレイの家に戻り、夜を明かす。
シリンは氷の毛布へくるまって、グレイを見つめている。寒そうな見た目だ。
日を改めて、彼らはゆっくりと階段を降りた。
大きな窓のついた部屋がある。
窓の向こう側に、円形の巨大な空洞が見える。
この空洞の内部にある氷は溶けて固まったような跡が残っている。
「ふむ、〈炎星宮〉……」
「炎の星。昔は、この空洞に何か巨大な炎の星でもあったんですかね」
「そうかもしれないね。その熱源から身を守るために周囲を冷やす必要があり、それで魔法の氷を使って研究所を建てたのだろう」
このエルブズ氷山が常冬なのも、その魔法の影響なのかもしれない。
グレイが窓に手をついて、少年のような瞳で空洞を見つめた。
特に興味がないオットーでも思わず圧倒されるほどのスケールだ。
ずっとこの氷宮を研究していた人間ならば、そういう反応にもなるだろう。
「その炎を研究する施設だったのだろうか。……設備は残っていないようだが、それでもハイエルフの叡智に近づいた気分だ」
ずっと空洞を眺めているグレイから離れ、オットーは部屋を探索する。
部屋の隅には無数の配管があり、それは何かの機械へと集中している。
そこにはカードを差し込めそうな穴があった。
おそらく、これが”メインの魔力源”とやらなのだろう。
配管を目で追っていたオットーは、壁に青い扉があることに気付いた。
壁に埋めこまれた金属製のキャビネットだ。鍵はかかっていない。
中に方位を指す模様のある小さな球体が一つだけ置かれていた。
「羅針盤。本当にあった」
球体の中に浮かぶ針は、水平よりもやや下を指している。
空洞とはまったく無関係な方向だ。おそらく”S.R”なる存在が勝手に侵入して置いていっただけで、この〈炎星宮〉とは関係がないのだろう。
「大空を取り戻せって言う割に、指してる方向は地中なんだな……?」
「きゅいー?」
氷毛布をくわえて離さないシリンが、不思議そうに球体を見つめている。
オットーは指を立てて、唇に手を当てた。
「シリン、この羅針盤は内緒だよ。宝は一つ、って約束だけど」
特に宮殿と関係ない品のようだし、”大空を取り戻せ”という文言が気にかかる。
これを持ち帰っても別に構わないだろう。
「きゅー……」
シリンが半目でオットーを見つめた。
「……嫌なら、普通に交渉するけど」
「きゅ」
というわけで、オットーは羅針盤をもらえないか交渉した。
二つ返事でOKされた。
グレイが機械にカードを差し込み、古代語で説明の書かれたボタンを操作する。
周囲の赤い明かりが消えて、白色の明かりへと切り替わる。
再起動できたようだ。
その後、彼らは改めて〈炎星宮〉を探索した。
全てのドアが解錠されたものの、どこの部屋にも大した物は残っていない。
だが、溶けない氷の家具類だけでも十分に稼ぎの出る遺物だ。
「こんなものか」
グレイの家に戻り、オットーたちは食事を馳走になった。
シンプルな野菜スープが、ずっと遺跡を探索して疲れた体に染み渡る。
「この遺跡。家具を引っ張り出して売れば、かなりの稼ぎになりそうですね」
「……うむ」
気乗りしない様子で、老魔術師グレイが答える。
「だが……私は、できればこのままの形で保存しておきたいと思っている」
「なるほど」
「私の愛した氷宮を略奪するような真似は嫌だからね。冒険者ギルドに伝えて研究員を呼び、十分に研究を重ねた上で……そのままの形で眠らせたい」
オットーは納得した。
金を稼ぎにきた彼とは違い、老魔術師グレイにとって氷宮は人生の一部だ。
彼が空へと愛着を抱いているように、深い感情を抱えているのだろう。
「あの氷宮の中を隅々まで見れたというだけで、私は満足なのだよ」
「あの……なぜ、氷宮なんですか?」
「何故? 奇妙なことを聞く。人が何かを愛することに、理由がいるかね?」
「いえ」
オットーはスープをすすった。余計なことを言ってしまった。
「……だが、面白い質問だよ。何故なのだろう?」
老魔術師は呟いた。
「美しい、と思ったのは確かだ。けれどね、ひと目見た瞬間から研究をはじめたわけではない。私がここに家を建てて研究を始めたのは六十を越えたような頃だ」
「そうなんですか」
「そうだ。……もしかすると、何でもよかったのかもしれないな。私の魔術師人生に意味があったと思えるようなことであれば」
「でも、あなたの目は少年みたいに輝いてましたよ。心の底から何かを好きだと思っていなければ、あんな目はしないと思いますね」
「そう見えたか? ならば、良かった。やはり、私は満足しているのか」
この歳になると、かえって自分のことがよく分からなくなってきてね、と老魔術師は肩をすくめた。
「老い先短い老人の話より、君の話を聞かせてくれ。何故、空なのかね」
「……さあ。好きだから好き、としか……」
「ああ。私も昔はそうだったよ。とにかく魔法が好きでね。若く、純粋だった」
老魔術師が微笑む。
「だが、魔法には色々な事情がついてまわった。いや、事情のついてまわらない物事などないのだろうね。私は折れてしまったよ」
「……そうですか」
「だがね。その代わりにはじめた氷宮の研究も、考えてみれば、やっぱり私は十分に楽しんだよ。歩みたかった道からは外れたが、悪くない人生だった」
老人は茶を啜った。
依頼の張り紙でも分かっていたことだが、彼は話が長い。
だが、本当のことを言っている。
そのせいか、オットーは不思議と長話を苦痛には感じなかった。
「今後の予定はあるのかね?」
「ひとまず、この羅針盤の指す方向を目指してみようかと」
オットーは球形の羅針盤を取り出した。
針は東方を向いていて、相変わらず水平よりもやや下を向いている。
「道中、なぜか翼竜騎士団に襲われたんですよね。それもあって、この近辺から離れておきたいので。どうせ遠くに行くのなら、と」
この針の通りに進めば、ヴェストエンデ辺境伯を突っ切って東に渡る形になる。
……ヴェストエンデ辺境伯は国の東方を抑えるための重要な役職であり、かなり領地が広く、辺境伯を通らずに東側へ行くことはできない。
だが、今のところオットーに西へと戻る気はなかった。
「ふむ? 翼竜騎士団か。金の臭いを追うハゲタカどもだ。やつらが無法を働くのは珍しいことでもない」
オットーの脳裏に、レファの何も考えてなさそうな顔が浮かんだ。
彼女の話だと、翼竜騎士は経済的に苦労しているという。
ならば悪事に手を出す者もいるのかもしれない。
「そういうことなら、報酬を増額しよう。立ち止まらず遠ざかりたいだろう?」
「え、いいんですか!?」
「もちろん。ただ鍵を運ぶだけでなく、私の話し相手として遺跡探索にまで付き合ってくれたのだからね。あの鍵の購入で、貯金はほぼ尽きたが……」
老魔術師グレイは塔の二階に上がり、貯金箱を持って帰ってきた。
金銀銅貨が混ざり、中身はずしりと重い。
「金貨数枚ぐらいにはなるはずだ。受け取ってくれ」
「貯金の全額ですか? 流石にそれは」
「気にしなくてもいい。もう使わないよ」
「はあ……」
オットーは報酬を受け取った。
そのあと、老人は短い手紙を書き、伝書鳩に持たせて飛ばす。
ギルドへの依頼完了報告だろう。
「もう出発するのかね?」
「ええ。山の天気は変わりやすいですし、晴れているうちに発ちたいので」
「それがいい」
窓の外に見える〈ライトフライヤー〉の翼には、うっすら雪が積もっている。
夜の間に降った雪が溶けずに残っているのだ。
氷毛布をくわえたシリンを連れて、出発の準備をする。
玄関から出たオットーを、老魔術師が呼び止めた。
「最後に、少しばかり忠告させてもらってもいいかね?」
「ええ」
「人生は、若者が思っているよりも長く、可能性に溢れている。もしも君が壁にぶつかり、挫折して空を愛せなくなったとしても、他に道は……」
「どんな壁があろうと、僕は乗り越えますよ」
オットーは言った。
高い壁を乗り越えたばかりだ。”人が飛行機械を作って飛べるがわけない”という常識を覆し、追放を乗り越え、そうして今ここに彼は立っている。
「おお……その若さが眩しい。そうなりたかったものだ。やはり私も、そうなりたかったものだ……最期に後悔の言葉など浮かんでこないような、そういう……」
いたたまれなくなり、オットーは外に出た。
機体を地面に固定しているペグを外し、彼は老魔術師の家を振り返る。
……柔らかいソファに座った老魔術師は、瞳を閉じてまじろぎもしない。
暖炉の炎はすっかり消えて、家の中は薄暗くなっていた。
死んでいる。窓越しでも、はっきりと分かった。
(長くないのは分かってたけど、このタイミングで……)
氷宮の探索で、残っていた命を使い果たしてしまったのだろう。
「シリン?」
「ん」
仔竜は静かに頭を振った。
きっと、ひと目見た瞬間から死期を悟っていたのだ。
回復魔法を使おうが、どうにもならないことはある。
オットーは、氷宮のよく見える位置に小さな墓場を作った。
老魔術師グレイは、多少なり満足して死ねたのだろうか。
それとも死の間際まで後悔していたのだろうか。
(……死に際に後悔を残すようなことは、したくないな)
墓に手を合わせながら、オットーは思う。
(もっと速く、もっと高く、もっと遠く……)
ささやかな痛みと決意、それと路銀を胸に、彼は飛び立った。
目指すは羅針盤の針の先。東である。




