兄弟の衝突
オットーは雲のすぐ下を飛び、少しづつ暗黒の森を測量していった。
測量器具どころか、自分の正確な高度を知る手段すらない。
それでも、空の上からの鳥瞰図というだけで十分以上に高精度だ。
ときおり山のほうに戻って着陸し、地図を書き込んで、また空に上がる。
時間のかかる地道な作業だ。飛行時間が長くなり、集中が緩んでくる。
「ん?」
暗黒の森から、火事の煙が立ち上っていた。
それだけではない。いくつかの場所から、戦闘の兆候が漏れている。
「試験が始まってたか」
気付かないうちに、戦闘領域の上空に来てしまっていた。
かなり距離は離れているし、流れ弾が当たることはないだろうが、それでも危険だ。
オットーは翼を傾けて、森の外側に向かおうとした。
その瞬間、右翼に大穴が開いた。
「!?」
オットーは目いっぱいまで体重移動と操縦桿での補助翼操作を行い、右翼を失った状態でなんとかバランスを保った。
そこまでやっても、気を抜けば勝手に右側へと機体が傾いていく。
彼は素早く右翼のダメージを確かめる。
攻撃を受けたわけではない。翼に荷重をかけた瞬間、布が破れた。
おそらく空戦のときに微細な傷が入り、それが今になって開いたのだ。
「楽しいからって、ちょっとやりすぎたか……!」
錐揉み飛行に入って墜落することだけは避けられたが、まともな操縦は不可能だ。
落ちる。出来ることは、落ちる場所を選ぶことぐらい。
「……あそこだ!」
以前にリントヴルムが木を倒して切り開いた簡易の滑走路がある。
目いっぱいに操縦桿を左へ倒したまま、何とか体重移動で進路を合わせた。
着陸するには速度が速い。
だが、速度を落としすぎればバランスが取れなくなり錐揉みに入ってしまう。
速すぎれば地面に叩きつけられて死ぬ。遅ければ姿勢が崩れて死ぬ。
(……速いほうがいい。最悪、足を折るだけで済むかもしれない)
オットーは冷静だった。
人間は空を飛べるようにできていない。命の危険はあって当然なのだ。
こういう事故が起こる可能性も、常に頭の片隅に入っている。
(……あ!)
そこで、彼は気付いた。
「〈デフレクト〉!」
右翼の風を無理やり操り、それで揚力を増やす。
バランスが改善され、何とかコントロールできる範囲内にまで戻ってきた。
「よし、これなら」
わずかに横滑りして速度を落とし、ラフにどすんと足から着地する。
勢いが強すぎてつんのめり、翼の先端が土に刺さった。
だが、これぐらいなら人間にも機体にもダメージはない。
「ふう……」
翼を背負うためのベルトを外し、オットーは改めて〈ライトフライヤー〉を見る。
横一文字で大きく翼が裂けている。
ハーピィの羽を使ったとはいえ、その羽は普通の布に固定しているだけだ。
翼に使っている布の強度が、機体の速度に比べて足りなかった。
それが事故の原因だ。分かれば対処できる。
(スパイダーシルクあたりの高級布が必要かな……でも、あれってファッション用途の需要があるせいで物凄い価格なんだよな……重くなるけど、もっと分厚い布にするか?)
オットーは機体の後方につけた箱を開き、中から裁縫針を取り出した。
穴を縫い合わせて固定すれば、なんとか飛べないこともない。
場所柄を考えれば、ダメージのある機体で飛んで脱出するほうがまだ安全だ。
「無様ですね」
そんな彼の様子を、木陰から見ている者がいた。
よりにもよって、その相手はカールだった。
「俺が叩き落とすまでもなく、勝手に落ちた、と」
「……確かに、無様だった。でも、直せば飛べる。それでいいだろ、別に」
「ふん。遊んでいる分には、それでいいんでしょうがね」
カールは鼻を慣らした。
「飛んでいるだけで勝手に壊れるような代物に命を預けるんですか? 素人の魔法が掠めただけで、その玩具は大破するというのに」
「……お前! それが分かってて、この前は俺に魔法を撃ってきたのか!?」
「警告射撃ですよ。威力は弱めて、狙いは外した」
怒りが限界に達したオットーは、懐の石を使い〈エアブラスター〉を放った。
「〈ワールウィンド〉」
巨大な風が渦を巻き、カールの前に盾を作った。
オットーが肌でびりびりと魔力を感じた。それほどに強大な魔法だ。
〈エアブラスター〉と石があっさりと弾かれる。
「好きにどうぞ。その玩具と違って、訓練した貴族に素人の魔法など効きませんよ」
(この野郎……! 〈セレスティアルウィング〉で突撃してやろうか……!?)
さすがに、それを実行しないだけの自制心がオットーにはあった。
あれは大魔法だ。一応は弟であるカールを真っ二つにはしたくない。
「ふん……これで分かりましたか? お前のやってることは無駄ですよ、オットー」
「想像力が無いのか……!? 飛行機械には、いくらでも活用法があるんだぞ!」
「ワイバーンでいいじゃないですか」
うっ、とオットーが言葉に詰まった。
確かに、今のところはまだワイバーンに飛行能力では勝てないのが事実だ。
今はまだ、の話ではあるのだが。
「この国にも、翼竜騎士ぐらいはいますし。エリート中のエリートですが。まあ、魔法学園の主席が最低限の条件になるほど狭き門を、お前が潜るのは無理でしょうね」
カールが彼をあざ笑った。
「空を飛びたいのに、なぜ翼竜騎士を目指さなかったんです?」
「……あれは、ワイバーンに乗ってるだけだ。自力で空を飛んでるわけじゃない」
「ふん。言い訳を並べ立てるのがよく似合っていますよ」
「違う。お前だって、こいつで空を飛んでみれば分かるはずだ」
「くだらない! そんなことは分かりたくない!」
カールが声を荒げた。
「魔法に全てを捧げるのが、正しい生き方なんですよ! お前は間違ってる!」
「生き方に間違いなんてない。お前はそれでいいのか、カール。本当に、そうやって生きていきたいわけ? ……好きでもないことに人生を捧げて、満足して死ねるのか?」
「黙れッ! 〈ダストデビル〉!」
カールの周囲を守るように、大きな旋風が渦を巻いた。
地面の小石や枝が巻き上げられ、いつでも発射可能な弾丸としてカールの周囲を回る。
「……俺のほうが強いんですよ。俺のほうが優秀な魔法使いなんだ。殺されたくなければ、それ以上生意気な口を叩くなっ!」
「試してみるか、カール。今の僕は大魔法を使える」
「嘘をつくなっ! 大魔法なんてものは、魔法に全てを捧げただけじゃ手が届かない代物だ! 選ばれた才能の持ち主が血のにじむ努力を重ねた先にあるものなんだ! お前ごときが……お前ごときが大魔法を使えるはずがないんですよ!」
「本当に、魔法だけが全てなのか? ……僕は、空を飛ぶことに命をかけたんだ。きっと、だからこそ〈大空の支配者〉も僕に答えてくれたんだろうと思う」
〈ダストデビル〉の中から、カールがオットーを睨みつける。
「あんな……あんなゴミ才能の持ち主に、大魔法が使えるわけが……っ!」
ぎりぎりと歯ぎしりが聞こえてきそうなほどの凄まじい形相だ。
手を出したいが、手を出せないのだろう。
……カールは間違いなく腕のいい魔法使いだ。
〈セレスティアルウィング〉が大魔法だと、心の底では気付いているのだろう。
「……ふん! 時間の無駄ですね! 俺は試験の最中ですし!」
「まったくだね」
カールが魔法を解き、かわりに魔物を呼び寄せるための笛を吹きはじめた。
ハーピィの叫びによく似た不愉快な金切り声だ。
一方のオットーも、翼の修復にかかった。
頑丈な糸を使い、破れた翼を綺麗に縫い止めていく。
幼い頃からずっと工作をしてきた彼は、貴族の男とは思えないほど縫い物が上手い。
(こんなものかな)
綺麗に修復を終えて、端でばっちりと糸を結ぶ。
応急処置とは思えないほどの出来だ。
「〈マルチプル・ワールウィンド・シュート〉!」
その横で、カールが無数の回転する風刃を空に放っている。
風刃そのものは不可視だが、魔力の輝きと景色の歪みがそこに刃があると示している。
ひたすら数撃ちゃ当たる戦法で連射されているそれを、空を飛び回るハーピィが全て回避した。
(空飛ぶ相手に弾を当てるのは大変だぞ……)
キイッ、とハーピィが鳴き、風刃の隙間から反撃の圧縮空気弾を放つ。
カールに当たる寸前で〈ワールウィンド〉の盾が受け止めた。
「こ、このっ!」
カールはムキになって更に回転風刃の数を増やした。
一度に数十発もの魔法が空を埋め尽くす。
そこでようやく一発が命中し、ハーピィが地面にどさりと落ちた。
「ふん……こいつに倒せる魔物が、俺に倒せないはずがない……」
「僕はそんなに苦労しなかったけど」
「は?」
二人の間に再び緊張が走り……その瞬間、遠くから悲鳴が聞こえてきた。
「!」
オットーが反応し、直したばかりの機体で空へと飛び立つ。
森の上に出た瞬間、すぐそばでハーピィの集団が地上を襲っているのが見えた。
反撃がない。悲鳴ばかりが聞こえてくる。
(カールの呼笛で集まってきたやつが、他の生徒を襲ったのか……!)
オットーが人助けのために〈セレスティアルウィング〉で加速する。
そして、半透明の翼でハーピィの群れを撫で切った。
数匹がまとめて地面に落ちていく。
彼はリントヴルムの機動を真似て、宙返りで鋭く反転した。
降下しながら〈エアブラスター〉で数匹を叩き落とし、翼で追撃して戦果を上げる。
地上を襲っていたハーピィたちが慌てて照準をオットーに変えた。
次々と放たれる空気の弾丸は、しかし彼を掠めることはない。
高速で飛行しながら回避を続ける彼を捉えようと思ったならば、それこそ空を埋め尽くす勢いで範囲魔法を放つか、あるいは追尾能力を持つ魔法でもなければ不可能だ。
為すすべもなく一方的にハーピィたちが叩き落されていく。
〈大空の支配者〉という才能の名に恥じない強さだった。
「嘘だ」
そんなオットーの姿を、地上で立ち尽くしたカールが見上げている。
ずっと”遊んでいた”オットーが、自分よりもはるかに強い。
その事実を目の当たりにして、彼の心は折れた。
「……やめてくれ……」
ついに逃げ出したハーピィを、問答無用の追撃が襲う。
〈セレスティアルウィング〉を展開したオットーが、彼の上空を通過した。
濃密な魔力の余波を感じたカールが、震えた。
尋常な魔法ではない。あれは……確かに、大魔法だ。
ハーピィを叩き落としたオットーが、はるかな上空へと飛び去っていく。
彼はただの一瞥も地上にくれず、悠々と曇り空を泳いだ。
「あ……」
そのとき、カールは致命的なことに気がついた。
オットーは大魔法を使う。魔法を尊ぶ貴族として最上級の存在である。
それこそ、名誉的な公爵位を得て国王の側近に就くべきような人間なのだ。
大魔法使いが出れば三代に渡って安泰、と呼ばれるぐらいの重要性を持つ。
そんな彼を追放したロング家は、どうなる?
「潰されてもおかしくない……」
国王は、いつでも配下の失敗を手ぐすね引いて待っている。
いくつもの貴族家が家を取り潰され、王家の直轄領に組み込まれてきた。
きっと、国王はこの失敗を見逃さない。
長いこと伯爵領ロングシュタットに封じられてきたロング家の伯爵という地位は、今や風前の灯火だ。
殺して彼の存在を隠せば、あるいは取り潰される未来は防げるかもしれない。
だが……殺せるのか? カールには、もはや自信が無かった。
そもそも、殺すべきなのか?
そこまでしてロング家を守ったところで、苦しい人生が続くだけだ。
「〈ワールウィンド・シュート〉……」
迷いながら弱々しく空へと放った魔法は、オットーを掠めることすらしなかった。
滅びゆく家の人間を地上に取り残し、彼は雲の彼方に消える。




