3.俄雨(にわかあめ)
午前の授業を終えて昼休みをむかえた僕は、まっさきに保健室へ向かった。
保健室の一番奥にあるベッドの上に、ツバメはちょこんと座っていた。朝方から降り始めた雨は昼前に上がっていたのに、彼女はまだカーディガンを羽織っていた。色のない表情で、窓の外にあるグランドを眺めていた。木々の隙間から木漏れ日が窓に差し込み、日光がやわらかく彼女の足下に落ちている。
室内で仮病をうったえて帰宅を急かす生徒が騒ぎ出した。その声につられて、ツバメがこちらを振り向いた。
「来てくれたんだ」
素っ気なく彼女は言った。
「約束だったからな」
そう僕は言い、ポケットから賭けのチップであるばんぺいゆアイスと、プラスチックで作られた簡易スプーンを取り出した。
それを彼女に手渡そうとした瞬間、僕は最大の疑問をぶつけた。
「なあ、本当にどうやって雨を降らせたんだ?」
「どうしたと思う?」
質問をそのまま投げ返されて僕は口ごもった。こういった時、どんな答え方をしても、相手はこちらの反応をおもしろおかしく捉えてしまうのだ。浩人みたいに「神頼みしたから」なんて馬鹿馬鹿しい回答をやろうと思って、途中でやめた。
「分からない?」と意地悪そうに彼女は突っついてくる。
「もったいぶってないで教えてくれよ。偶然じゃないんだろ?」
「うん、偶然じゃない」
「じゃあどうやって……」
どうやって雨を降らせたんだ、そう言いかけた時、ツバメは僕から視線を外してまた窓の方を見た。
「口で言っても信じてもらえそうにないから、今から降らせてみる」小さくこぼし、こちらを見る。
「今ここで降らせるっていうのか?」
「そう」屈託なく、彼女は言った。「ちょっと待ってて」
言い終えるなり、ツバメは静かに両目を閉じた。雨雲を呼び寄せるための儀式の一環なのか、それともトリックの下準備をしているのか、半信半疑の僕にはよく分からなかった。
けれど一瞬、僕とツバメを取り巻く空気が別の空間へシフトしたかのような錯覚を覚えた。超常現象とはまた違ったものだ。同じ保健室でも一番奥にあるこのベッド周辺だけが一時的に切り抜かれた、そんな感覚だった。白昼夢、と表現した方がしっくりくるのかもしれない。
仮病で帰宅を訴える生徒の声。
それをたしなめる先生の声。
青葉がこすれ合う音。
すべてが遙か遠くに聞こえた。
やがて意識が現実とリンクして、僕はツバメの表情にピントを合わせた。透明な物が彼女の目尻から頬にかけて流れていた。
涙だった。
心臓が一際大きく鳴って、思わず僕が彼女に声をかけようとした瞬間、ツバメが両目を見開いた。
「おい、大丈夫か?」
「大丈夫だから、空を見て」
こちらの心配をまったく受け付けず、ツバメは素早く頬を伝った涙を手で拭った。急な展開にどぎまぎしている僕を見て「早く、空を」と言い、更に追い打ちをかけてきた。僕はそれにおとなしく従って、窓越しに空を見やった。
さっきまで雨雲がしのびよる気配なんて微塵もなかった青空に、また濁った波が押し寄せてきていた。風が強いためかそれは一気に青空を覆い、一切の日光を遮っていった。やがて雨粒が降り注ぎ、辺り一帯に暗がりを落としていった。
今朝見た現象とほぼ同じだった。
何もない青空に雨雲が生まれて、雨粒が降る。でも彼女が宣言してからまだ二分と経っていない。天候相手にタネを仕掛けるにしては随分と時間が短い。
振り返るとツバメはいつの間にか僕の手からアイスをくすねて、スプーンで中身をすくって食べ始めていた。
「賭けは私の勝ちだから、別にいいでしょ?」
ほくそ笑みながら、彼女は言った。
雨を降らせるトリックはにわかに信じがたく、そして単純なものだった。
「泣くと雨が降る?」
少しツバメと距離を取って僕はベッドに座りながら訊いた。
「うん。生まれた時からよく分からないけど、そういった不思議な力があるみたいなの」言いながら、ツバメは自分の手のひらを何度も握っては開いた。「がっかりした?」
「何が?」
「あまりにも現実離れしてて」
「そりゃ、信じられないけどさ……」
語尾を引きずりつつ僕は言った。彼女の言うとおり、あまりにも現実味を帯びていないトリックだった。いくらタネ明かしを目の前でされたといっても、素直に受け止められるものではない。物的証拠がない分、信憑性にはかなり欠けている部分があった。
でも確かに、この短い期間で二度も彼女の力を見せつけられたのだ。面と向かって彼女をペテン師呼ばわりするのは、いかんせん強引な気がした。
「それって、いつでも泣けば降らせられるわけ?」僕は訊ねた。「例えば、無理に泣く時と、自然と泣く時とか」
「……基本的に一緒。でも感情がこもってたり、昂ぶっていた方が、より強い雨を降らせられるかな」
ツバメは外を見やり、次第に収まりつつある雨粒を眺めながら言った。空に沈んでいた雨雲の層も薄くなり、疎らに陽が差し始めている。
「それって、もしかして嬉し泣きした時もか?」
「うん」
彼女はそう答えると、空になったアイスのカップをベッドの脇へと置き、スカートのポケットからあのウエハースを取り出した。「食べる?」とツバメは勧めてきたけれど、やんわりと僕は断った。
「嬉しくてたまらない時とか、あくびした時も一緒。一滴でも目からあふれたら、周りは途端に雨模様」眉を細め、彼女はウエハースを一口かじった。「雨女って言われるのも、無理ないよね」
ツバメが放った一言に、僕はひどく動揺した。表情には出さないよう気を気張ったけれど、ポーカーフェイスは苦手だから、多分彼女は気づいたと思う。
彼女の耳にはもうとっくに入っていたのだ。自分自身がクラスの傍らで「雨女」というふざけたニックネームで呼ばれていることを。
「いいよ、慣れてるから。不当な扱い受けるのは」
「不当って……」次の言葉がすぐ思いつかなかった。「でも、僕は助かったよ」
「え?」
「予行練習、中止にしてくれたろ?」
「それは、賭け事だったから」
喉奥からやっとのことで出した慰めの言葉も、彼女は遠慮なく弾き飛ばした。
やがてツバメはウエハースを食べ終わり、残ったパックをポケットに戻すと、悪寒がするのか、急に自分を抱きしめるように体を両手で小刻みにさすり始めた。
「大丈夫か?」
「……大丈夫」
「寒いの?」
「まあ、そんなところ」
そんなところ?
彼女はまだ何かを隠しているようだった。雨が降ったとはいえ、室内の温度はさほど変化していない。風邪を引いているならまだしも、そんな素振りも彼女には見受けられなかった。おまけにカーディガンまで羽織っている。
しばらくしてツバメは「帰るね」と小さくこぼし、ベッドからゆっくりと立ち上がった。立ち上がった反動でベッドが揺れ、アイスカップ跳ねて床へ転がった。
「アイス、ありがとう」
立ち去ろうとする彼女に、僕は何か言わなければと言葉を探した。
「なあ小山内」とっさに彼女を呼び止める。「他に、このことを知ってる奴はいるのか?」
「……さあね」
「さあねって……」
「でも、このことは秘密にしておいて」
「秘密?」
「そう、二人だけの秘密」
語尾を強調して、ツバメは言った。そんな照れくさい台詞をよく言えるなと、僕は逆に気恥ずかしくなった。
「そりゃ別にいいけど……でも、だったらどうして僕に話してくれたんだ?」
訊ねると、ツバメはおもむろに口元を動かした。けれど声には出さず、言いかけた言葉を彼女はそっと噛み殺した。
「ちょっとした、きまぐれだったから」
その場でこしらえたようなチープな理由を吐き捨てると、ツバメは足早に保健室を出て行った。
床に落ちたアイスカップを、窓から差し込んだ陽の光りが強く射ていた。