2.一雨(いちう)
翌日。
結局僕は風邪を引かず、ツバメとの賭けをするため登校した。空は青一点の快晴、予行練習にはうってつけの天気になった。グランドも早朝委員会が整備して、かなりならしてあった。完全に決行モードだ。
予行練習のスケジュールが担任から告げられ、ホームルームが終わるなり僕ら男子生徒は着替えるため、隣のクラスの女子生徒と入れ替わるようにして教室を移動した。ちょうどツバメがいるクラスだったから彼女の姿を探したけれど、僕の目は捉えることができなかった。
「まったく、ダルいよな」
気だるそうに浩人が言う。
「体育祭前だからって、気合い入りすぎだ」
「まあな」便乗して僕は言った。
同じクラスの日向野浩人とは小学校入学当時からの付き合いだ。
知り合ったきっかけは、ちゃちなイタズラだった。
「お前、ピンポンダッシュしたことある?」
父親が亡くなってまだそう経っていない時期、どこか一人教室でちょこんと孤立している僕に、彼は急にそう投げかけてきた。
ない、と真顔で答えると「じゃあ一緒に帰ろう、コツ教えてやるからさ」と、にやりと笑って浩人は誘ってくれて、僕らは下校中、立ち並ぶ家々を軒並み襲撃した。もちろん先生にバレれてこっぴどく叱られたけど、僕と浩人はそれから意気投合してすぐつるむようになった。
「守、委員会に中止にさせるよう交渉してこいよ」
野球部に所属しているとは思えない発言だった。対する僕は部活すらしていない。
「絶対無理だよ」
「あー、滝のような雨でも降らないかな」
嫌々体育服に着替える浩人をよそに、僕は教室の掛け時計を注意深く見た。八時五十九分。秒針は「六」を既に回り始めている。約束の時間まで残り僅かだ。
中庭へと続くベランダを仕切られているカーテン越しに見やる。風に吹かれ、度々なびくカーテンの隙間から日光が漏れている。雨どころか、曇ってすらいないようだった。
――私が雨を降らせるの。
ツバメの一言が、頭の中で再生される。
本当に?
疑う僕の耳に、九時と一限目前を告げる予鈴が届いた。あと五分もすれば練習がスタートする。
最初はスピーカーの故障だと思った。予鈴に混じって、小さな音が小刻みに鳴り出した。やがてそれは次第に連なって大きくなり、馴染みある音が学校中をあっという間に包み込んだ。乾いた空気が瞬時に冷え、風が湿気を帯びながら教室を駆け巡った。
ウソだろ?
心臓が高鳴って、体中が熱くなる。僕は身震いを覚えながら、立ち並ぶ机や椅子をどかしながらベランダへと向かった。暴れるカーテンを掴み、力任せに引く。
視界いっぱいに、無数の雨粒が空から中庭へと降り注いでいた。雨粒は中庭の至る所にぶつかり、勢いよく次々と弾けている。上空を見やると、快晴だった空にどす黒くにごった雨雲が重く横たわっていた。時折横殴りの風が生まれ、雨粒が荒っぽく軌道を変えている。
本当に、降った。
唖然とする僕の傍らで、同級生は上空を見上げながら雨音に負けないくらいの歓声を上げていた。もう小雨どころの騒ぎではない。予行練習の中止は、誰の目にも明らかだった。
「おいおい、マジで降ってきたな」窓から身を乗り出して浩人が言う。「神様って案外いるのかもな」
「いや、違う」
僕はすぐ浩人を否定した。根拠はないけれど、その時の僕には心当たりがあった。
「まあどっちみち練習は中止だな」
のんきに言いながら、浩人は脱ぎかけていたカッターシャツを着直し始めた。周りの同級生も同じように着直し、校内学習へのスタンスへ頭を切り替えていた。体育祭の役員は考えあぐねているのか、教室に設けられているスピーカーからはまだ中止の告知は伝えられていない。
神様が降らせたのか、それともこの雨を予知していたのか。
いずれにしても、雨は時間通り降り始めた。
賭けはツバメの勝ちだ。
でも、どんなトリックを使ったんだ?
僕はそれを確かめたくて、いてもたってもいられなくなった。体育服をそのまま教室に置き、廊下へと出る。タイルが敷かれた床も、このままの調子だと数時間後には湿気が降りて滑りやすくなるだろう。
ふと、廊下の角を曲がってくる人影があった。ツバメだった。肌寒いのかっこの天気の中カーディガンを羽織っていて、左手にはハンカチを持ちながら廊下の右側に沿ってこちらへ歩いてきていた。その後ろに続くようにして、彼女の担任を務めている新任の南雲先生の姿もあった。
南雲先生は短大を卒業した後に大学部へ行き、そこで教員免許を取得してこの学校へと配属された、と聞いていた。まだ二十代後半で目線が生徒に近く、気軽に話しやすいことから男女共に人気があった。
先生と生徒。普通なら会話の一つくらいあってもはずなのに、二人は表情を険しくさせたまま無言で廊下を歩いていた。でも捉え方を変えて見れば、ツバメが南雲先生を巻こうとしているようにも見えた。
途中でツバメが僕を視界に捉えた。一瞬、彼女の歩調が崩れる。その隙を突いて南雲先生がツバメに歩み寄る。
「小山内さん、まだ話はついてないの」
「後にして下さい、今忙しいんです」
呼びかける先生にツバメは抑揚のない声で煙たがるように言い返した。温もりが一切含まれていない、心底冷え切った声だった。昨日会った彼女とはまるで別人みたいな態度だった。
けれど、今はそんなことどうだっていい。
「小山内」距離が詰まったところでたまらず僕は言った。「お前、どうやったんだ?」
するとツバメは周囲に目配せして、すれ違いざまに「お昼に保健室で」と短く切り、まだ男子が着替えている教室へと入っていった。どよめきを物ともせず、窓際の席に着くなり、頬杖を突いて外を眺め出した。廊下から南雲先生が呼びかけるも、反応一つ見せない。
「小山内がどうかしたんですか?」
ツバメの態度が気になり、隣で狼狽える南雲先生に訊ねた。でも先生はぎこちない笑顔を無理に作って「なんでもないわ」と答えた。それから一度ツバメに視線を移すと、うつむきながら廊下を歩いて行った。
なんでもないわけがない。
けれど、それ以上立ち入ったことを聞くなと、僕の直感がアラート音を鳴らしていた。
「おい、守」いつの間にか廊下に出ていた浩人が声をかけてきた。「お前、小山内と何かあったのか?」
さっきの一部始終を見ていたのか、浩人が探りを入れてきた。僕は少し考えて「どいて、って言われただけだ」とウソをついた。異性関係ではやし立てられると、後々面倒になる。ましてや、相手はお尋ね者の小山内乙鳥だ。
「ふうん……まあ小山内は顔はいいけど、あいつの肩持ったら学年全員の女子敵に回すからやめとけよ」
「敵?」僕は訊き返した。
「新任の南雲先生、まだ若いせいか女子と友達感覚で話してるの知ってるだろ?」
「うん」
「学年全体で見ても、女子からの評判はめちゃくちゃいい。けど、小山内はなんでか知らないが南雲先生に対してずっと冷たく当たってる」
数分前のワンシーンが脳内で再生される。
「人当たりも悪いし、教科書とかの貸し借りも拒否するらしい。だから、先生サイドの女子はあいつを目の敵にしてるんだ。つまりあいつの味方をする、イコール学年大半の女子に楯突くことになるんだよ。オーケー?」
「そりゃ、厄介だな」
確かにそれは厄介だった。女子の情報網と連係プレイは侮れない。いったん噂が流れてしまえば、どんな脚色が付け足されるか分からないし、下手をすれば隣町まで流れ着くかもしれない。
「小山内と先生が仲悪い原因は分からないのか?」
「さあな。女同士のいがみ合い、ってやつなんじゃないのか。あいつ変人だからな」
「生粋の雨女、とかか?」
僕はその一言を口にするのにかなり神経を使った。
「それもあるし、体育の授業も全て見学してるところも変だしな」
「それも分からないのか?」
さっぱりだ、とでも言うように彼は両手を肩まで軽く挙げ「お手上げ」のポーズを取った。
「けどおかしいんだよな、全然おとがめないんだぞ?」そう言い、浩人は体育の授業を担当している鬼教官の名前を口にした。「あいつ女子にすら容赦ないのに、小山内にだけペナルティ無しなんて、信じられないよな」
僕はそれを聞きつつ、窓を見続けているツバメを眺めた。
――お昼に保健室で。
デザートを持って保健室に来れば、その時にマジックの種明かしをする。あの時の彼女の台詞は、僕にはそう聞こえた。
直後、予行練習を中止とするアナウンスが校内放送で流れた。本来ならば密かにガッツポーズを取りたいところだけれど、どうしてか、そんな気にはならなかった。
雨脚は未だ衰えていなかった。