第8話:期待②
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一週間前、私の「日常」は終わった。
そして昨日、私の「常識」は崩れ去った。
だけど同時に、失われた日常を取り戻せるかもしれない希望が見えた。
私は、終わらせなければならない。この非日常を。
−−−
7月23日の朝、私は目を覚ます。昨日のような疲労感はなかった。携帯で時間を確認する。まだ昼前だった。
リビングに行くと、お母さんはまだ仕事に出かける前だった。
「おはよう、湊」
「おはよう」
お母さんはもう怒ってない。一度怒ると、その時のエネルギーはすごいが、それが決してそれが翌日に持ち越されることはなかった。
私はトーストを食べる。今日は全部食べ切れた。それどころか、もう一枚食べた。
「じゃあ、仕事行ってくるね」
「あ……」
私は、昨夜の出来事を伝えておいた方がいいのではないかと思った。渚が見つかるかもしれないことがわかれば、お母さんも少しは安心できるのではないだろうか。
……いや、さすがにあんな荒唐無稽なことを信じてもらえるとは思えない。最悪、息子は行方不明になり、娘は頭がおかしくなったと、余計な心労を増やしかねない。
「どうかした?」
「いや……ごめん、なんでもない」
「……? じゃあ行ってきます」
お母さんが出て行ったあと、私は自分の手をじっと見た。しばらく念じたりしてみたが、昨日神門が言っていた『黒いエア』は出てこない。私の意思では出せないのか。なにか条件があるのか。
『エア』とは一体どのようなものなのか。神門に会ったらまずそれを聞こうと思った。
−–−
神門が記した住所は、間賀市の小荊区だった。私たちが暮らす中央区からは地下鉄一本で行ける。
小荊駅に着いた私は、地上に出ると地図アプリを起動した。神門の住所を打ち込むと、ここから徒歩20分の場所を示した。
私は音声案内をスタートさせ、人で溢れる駅前のビル街を離れた。
しばらく歩くと、私はある町に近づいていることに気づいた。そこは、間賀市小荊区楽多町。全国的には『極楽街』の通称で有名な夜の街だ。
今まで来たことはなかったが、あまりいい噂は聞かなかった。治安もあまり良くないという。少しためらったが、ガイドはここを通るように言うので私は派手な色の看板が並ぶ歓楽街へと足を進めた。
『右折してください』
5分くらい歩いたところで、ガイドがそう言った。右手を見た私は思わず「げっ……」という声を漏らしてしまった。
そこは、狭い路地裏だった。電線が蜘蛛の巣のように張り巡らされ、昼間だと言うのに薄暗く鬱蒼としていた。
普通なら絶対近寄らないだろう。だが、ここで引き返すわけにもいかない。私は意を決してその路地裏に足を踏み入れた。
『目的地に到着しました』
路地裏に入って2、3分後、そう言ってガイドは終了した。
「……到着って……」
そこは、いかにも、と言った風な雑居ビルだった。テナントを確認すると、3階に『神門商会』なる事務所が入っていた。ここで間違いない。
……あの男。薄々感じてはいたが、やはりカタギではないのだろうか。
大いに迷ったが、私はビルの階段に足をかけた。万が一のために、すぐに110番に通報できるように携帯を設定しておいた。
3階に着く。目の前のドアには『神門商会』の文字。ここだ。
私は恐る恐るドアを開けて中に入る。室内はクーラーが効いていて涼しかった。意外と片付いていて、部屋の隅に向かい合わせに置かれた大きな革張りのソファがあった。その横には奥に通じるドアがある。
だが、神門の姿はなかった。奥の部屋にいるのだろうか。
私は、昨日神門にもらった紙に書いてあった電話番号にかけてみようと思い、携帯を取り出した。
ガチャ
という音が私の背後で聞こえたのはその時だった。同時に、何か硬いものが後頭部に押し付けられた。
「なんだテメエ、 勝手に入って何やってんだ?」
−−−
低い女の声が後ろから聞こえた。私は動けない。足がすくんでいた。この女が今、私の頭に突きつけているものが何なのか、想像できてしまったのだ。
「おい、聞いてんのかコラ。『何してんだ』っつってんだよ」
背後の女の声は苛立っていた。だが、私は声が出せない。
「柘榴、そのお姉ちゃん、敵じゃないよ」
部屋の中で声がした。こちらに背を向けている方のソファからだった。
私は驚いた。人がいたこともそうだが、その声が性別の判断がつかないほど幼かったからだ。
子供がいる……?
「ああ!? じゃあ誰だってんだよ、臣!」
柘榴と呼ばれた後ろの女はそう怒鳴った。
「神門の客だよ」
臣と呼ばれたソファの子供がそう答える。
「神門? こんなガキが神門になんの用があんだよ。うちは売春の斡旋なんざやってねえぞ」
「神門に聞きなよそんなの」
「……ちっ……」
頭に突きつけられていたそれが下ろされる感覚がした。私は素早く振り返る。
そこには、声とまったく同じイメージのいかつい風貌の女が立っていた。赤く染められた髪は後ろから見たら男性だと思われるだろうというほどの短髪で、右耳とこめかみにピアスが計4つ空いていた。
露出度の高い黒革の服を着ていて、あらわになった右腕には、幾何学模様のような刺青が入っていた。そして右手には……
「なんだ? 初めて見んのか?」
拳銃が、握られていた。
これで疑惑は確信に変わった。神門(と、この人ら)は完全に反社会組織の人間だ。さっきまでこれの銃口が私の頭に向いていたのかと思うとゾッとする。
私は柘榴を警戒して後ずさり、ソファのそばに寄った。
そこで、私は目を見張った。ソファには声音通りの子供が寝ていたからだ。柘榴に臣と呼ばれていたその子は、ブカブカのTシャツを着て、携帯でアプリゲームをしている。
小学校低学年くらいの女の子だった。だが奇妙なことに(こんなところに子供がいるのがそもそも奇妙だが)、その子の肩辺りまで伸びた髪が、目の覚めるような水色だったのだ。染めているのだろうか……
「おとこ」
「え?」
「お姉ちゃん、僕のこと女だと思ってるでしょ。お・と・こ! はあ……なんでみんな間違えるのかな」
女の子かと思いきや男の子だったようだ。でも、なぜ私が間違えているとわかったのだろう? どう見ても女の子みたいな見た目だし、よく言われるのだろうか。
「おい、なにやってんだお前ら」
奥のドアが開いて、神門が出てきた。私を見た神門は顔を綻ばせた。
「お! 来たか、湊。下で電話してくれりゃ降りていったのに」
そうすりゃ良かったと私も心底思う。
「おい神門、このガキなんなんだよ」
苛立っているように柘榴が言った。
「あれ? 言ってなかったか? ……ああ、お前昨日寝てたもんなあ。まあちょっといろいろあってな」
「いろいろってなんだよ」
「まあなんだ……あ、そうだ。湊、お前昼メシ食ったか?」
「え? ま、まだだけど」
この男は唐突に話を変える。
「よし、じゃあ自己紹介も兼ねて飯食うか! 臣、適当な出前検索しろ」
「はあ!?」
「えー、ゲームしてるんだけど」
食事? なにを考えてるんだこの男は。
「神門! 説明しろよ」
「飯の時にちゃんと説明してやんよ」
どうやら私は今から、このどう見ても怪しい男、銃を持ってるアブない女、そして奇妙な子供、という謎にも程がある謎メンで食事をするらしい。
か、帰りたい……