第4話:混乱②
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そこに立っていたのは、知らない男だった。
まるでローブのような真っ黒い服で全身を覆っていた。体格から男だと判断したが、顔もフードに隠れてよく見えない。
誰がどう見ても不審者だ。私は男を警戒して立ち上がる。
「▫︎▫︎▫︎▫︎……」
「え?」
男が何事か呟いた。だが、私にはその言葉がわからない。と思った瞬間、男が私に向かって腕を伸ばした。私はびくっと身構えて一歩後ずさる。かかとが水たまりに少し付いた。
その刹那。
「……!? ごぼっ……」
突然、私は呼吸ができなくなった。
「ご……が……」
私はただ立っていただけだ。なのに今、私の頭は水に浸かっている。
首から下はなんともなく、頭だけがフルフェイスヘルメットを被っているように水に覆われていた。当然、私は溺れる。
何が。一体何が起きてるの? この男が何かしてるのか?
男と私の間には5メートルほど距離があった。しかも男はその場から一歩も動いていない。ただ腕を前に突き出しただけだ。
私は『水』から逃れるために必死にもがいた。手にしていたと携帯とカバンが地面に落ちる。しかし『水』は私を逃さない。私の動きに合わせて水もついてくる。私は地面に倒れた。
苦しい、苦しい、誰か、誰か助けて、誰か……なぎ……
思考ができない。意識が遠くなりかけた、その時だった。
私は、私の中から、『何か』が湧き上がるのを感じた。
一瞬、目の前が真っ暗になった。同時に、ばしゃり、という音と共に私の頭は水から解放された。反射的に私は飛び上がり、男と距離を取る。
「げほっ! げほっ! ……はーっ、はーっ、はーっ……」
私は地面に両手をついて肺に入った水を吐き出す。今ほど空気が美味しいと思ったことはなかった。
「▫︎▫︎▫︎……!?」
男も何が起こったかわからない、というように動揺しているようだった。
一体今、何が起きた? 私の中から何かが湧き上がるようなあの感覚。これは……
「……!」
私は気づいた。今、私は公園内の照明の下にいる。さっきまでは暗かったからそれがよく見えなかったのだ。今ははっきりと見える。
それは、まるで夜空のような漆黒だった。無重力に墨汁をばらまいたかのように、不定形で真っ黒な、得体の知れない『物質』が私の全身から溢れて空中を浮遊していたのだ。
−−−
中学生の運動会の時、私は400メートル走に出ることになった。
スタートの合図と共に全速力で走った。走り終えて、ゴール横で座り込んでいる時、私は自分の体から熱が放出されているのが、はっきりと感じられた。
その時の感覚に、よく似ていた。この真っ黒い『何か』は間違いなく私の『内側』から湧き出している。
これは、一体何だ?
「▫︎▫︎▫︎!」
ローブの男が叫んだ。その瞬間、男の周囲の水たまりの水が浮かび上がった。
「……!?」
水はまるで生き物のように男の周りを浮遊していた。
まさか、この男が水を『操って』いるのか?
そんな馬鹿な……だが……
男は私に向かって手を伸ばす。同時に男の周囲の水が飛んできた。私は思わず手で顔を守ったが、しかしさっきのようにはならなかった。私から溢れる黒い『何か』が、まるで私を守るように私の前を覆ったのだ。そして黒い物質に当たった水はそのまま地面に落ちた。
「▫︎▫︎!?」
男は思い通りに行かなかったことに、さらに動揺しているようだった。
わけがわからないが、逃げるなら今しかない。だが、情けないことに私は腰が抜けて立ち上がれなかった。
「ざけんな! 動け馬鹿!」
自分を罵倒するが、両脚が言うことを聞かない。
「▫︎▫︎!」
男が再び私に手を向ける。私は思わず目をつぶる。
しかし、
「▫︎▫︎▫︎▫︎▫︎▫︎!!」
悲鳴を上げたのはローブの男の方だった。
私は顔を上げる。男の右腕からは血が流れており、地面にぽたぽたと血溜まりが滴った。
男の右腕には、一本のナイフが刺さっていた。
なんだ? あのナイフは?
「よお、なんかトラブってる感じ?」
声がした。その方向に視線を向ける。
−−−
そこには、一人の男が立っていた。ノーネクタイのスーツ姿で、無精ヒゲを生やした男だった。
何者だ? なぜこんな異常極まる状況を見て落ち着いていられるんだろうか。もしかして、あのナイフはこの男がやったのか?
「いや〜まさかとは思ったけど、マジで『黒』だな」
「は……?」
ヒゲの男は私に向かってそう言った。なんのことかまったく理解できない。
「▫︎▫︎▫︎!」
ローブ男が、ヒゲの男に向かって怒鳴った。そして、傷んでない左腕の方をヒゲの男に向けた。その瞬間、周囲の水が今度はヒゲの男を目掛けて勢いよく打ち出された。
だが、
「▫︎▫︎▫︎!!」
伸ばしたローブ男の左腕を貫くように、4本のナイフが突然現れた。男は叫び、腕を押さえる。水はヒゲの男に届く前に地面に落ちた。
「悪いんだけど、俺この子に話があるからさ、外してくれねえか?」
余裕たっぷりにヒゲの男は言った。私に話がある……?
「▫︎▫︎……▫︎▫︎▫︎!!」
両腕に重傷を負ったにも関わらず、ローブ男はまったく戦意を失っていないようだった。今度は両腕をヒゲの男に向ける。
その動きに連動するように、水が男に向かって襲いかかる。
「ガッツあるねえ。でも……残念」
水は、ヒゲの男に到達する前に、男の周囲の空間に飲み込まれるように消えた。
「▫︎▫︎……!?」
「お前にとって俺は、エアの相性が悪すぎる」
ヒゲの男はそう言ってローブ男に近づいた。さすがに打つ手無しか、ローブ男は呆然とするだけだった。
「ちょっと大人しくしといてな」
そう言うとヒゲの男はローブの男の頭を掴んだ。その瞬間、ローブ男はさっきの水のように、空中に飲み込まれるようにしてその場から消失した。
「……!」
夜の公園には、私とヒゲの男の二人きりになる。
「やっとゆっくり話ができるな」
男は、そう言った。
−−−
「神門だ」
「え?」
「俺の名前だよ。神様の門って書いて神門。どうぞよろしく」
「……」
なぜこのタイミングで自己紹介を?
「早速だけど嬢ちゃん。その黒いやつについて話したいことがある」
そう言って、男–––神門は、一歩私に近づいた。
「近寄らないで!」
神門はピタリと動きを止める。
「まあそう警戒しないでくれよ。嬢ちゃんに危害を加えるつもりはない」
信じられない。この男もローブの男と同じように不可解な現象を起こせるようだ。助けてもらったとは言え、『危険』なことには変わりない。
「……この黒いのがなんなのか、あなたは知ってるの?」
私は神門にそう聞いた。黒い『何か』はまだ私の体から漏れていたが、だいぶ弱々しくなっており、今にも消えそうだった。
「ああ、よく知ってる。……嬢ちゃんは自分にそれがあるのを知らなかったのか?」
私は頷く。
「今初めて、こんなものが体から出てきた。これについて話したいことがあるなら、まず私の質問に答えて。これは一体『何』なの?」
「初めて? ふむ……」
神門は少し考える素ぶりを見せた後、口を開いた。
「『エア』と俺たちは呼んでいる」
「『エア』?」
「さっきみたいなわけわからん現象を起こす物質のことだ。俺たち人間は、誰しも体の中にエアが宿ってるんだ」
神門は、語り始めた。
初バトルが新キャラvs新キャラ