第3話:混乱①
☆
そこには、包帯でぐるぐる巻きになった俺の腕があった。
朝、起きて最初にそれを見た俺は、昨日のことが夢ではなかったことを理解した。
俺は全身に大怪我を負い、ミューレさんという謎の美女の家に厄介になっている。何一つ理解できないが、そういうことらしい。
「正気かよ……」
そう呟いた。その時、扉が開く音がした。
「お目覚めになられましたか」
ミューレさんの声がした。反射的に頭を動かすと、また痛みが襲ってきた。
「お早うございます。お水を飲まれますか?」
「お、お願いします……」
一晩経って、俺の喉はまた渇いていた。水が欲しかった。
「メレル、お水を」
ミューレさんは側にいる誰かにそう言いつけた。寝ている俺からは見えないが、もう一人いるらしい。
「はい。失礼致します」
少女の声がした。そして、俺の目の前に、ミューレさんにメレルと呼ばれたその人物が現れた。
「う、うわあああああ!?」
メレルの姿を一目見た俺は驚きのあまりのけぞってしまった。全身を鋭い痛みが貫く。
「……!?」
そんな俺を見てメレルとミューレさんは驚いていた。だが、俺の驚きは二人よりもはるかに大きかったと思う。
なんせ、そこにはメイド服を着た犬が立っていたからだ。
−−−
メレルの姿は、全身毛むくじゃらで、頭の上からは尖った耳がぴんと生えていた。鼻は高く伸びていて、正に犬のそれだった。それでいて、身長は普通の人間の女の子と同じくらいで、二本足で直立していた。
「す、すいません。▫︎▫︎の人を見るのは初めてでしたか?」
「え……?」
あまりのことに愕然としていると、ミューレさんがそう言った。その言葉に、一部聞き取れない部分があった。
というか、ミューレさんはメレルのことを何ら奇妙だと思っていないようだった。
「メレル、人間の使用人を連れてきてください」
「はい……失礼します」
メレルはそういうと部屋を出て行った。程なくして、普通の人間のメイドさんが現れ、俺に水を飲ませてくれた。
喉は潤せたが、俺の心中は穏やかじゃなかった。一体さっきの犬みたいな少女はなんなんだ。いよいよわけがわからなくなってきた。
……とは言うものの、俺の中には一つの予想があった。突拍子もない予想だが、もしかしたらここは……
「……彼女を、メレルを邪険にしないでやっていただけませんか? 少し頑固なところもありますが、あの子は優しく、真面目な子です。彼女以外にもここでは▫︎▫︎の人が多数暮らしていますが、野卑な人など一人もおりません」
ミューレさんはそう言った。また一部が聞き取れなかった。
「は、はい……」
俺は一応そう答えておいた。そしてずっと気になっていたことを聞いた。
「あの、日本語、お上手ですね」
「ニホンゴ? 母国語ですか? 申し訳ありませんが私はその言語を存じません。私たちが会話できているのは私の▫︎▫︎の作用によるものです」
まただ。しかも重要そうな言葉だけが聞き取れない。
しかし、前後の文脈から考えると、ミューレさんは日本語を話しているわけではなく、何か別の理由で会話ができているってことか?
俺は訳がわからなかった。話せないって、現に今話せてるじゃないか。
「ですが……私も常にこの屋敷にいるわけではありませんから、私の▫︎▫︎と同じ効果を持った▫︎▫︎▫︎を今のうちにお渡ししておきますね」
「え?」
聞き取れない単語が増えた。何が何やらわからないうちに、ミューレさんは俺に水を飲ませてくれたメイドさんに、何かを持って来させるように指示した。
「改めまして、私はミューレ・ラナスタウトと申します。この屋敷の主人です」
そのメイドさんを待つ間、ミューレさんは自己紹介した。よく見ると、ミューレさんはかなり若かった。若いどころか、俺とそこまで変わらないんじゃないだろうか。その若さで『屋敷』の主人って……
「あ、えっと、俺の名前は……白崎渚です」
「ナギサ様とおっしゃるのですね」
俺なんかのことより、聞きたいことが山ほどあった。質問しようと口を開きかけたその時、扉が開く音がした。
視線を向けると、さっきのメイドさんがトレーのようなものを持って立っていた。何が乗っているのかは見えない。
「ありがとう。そこで結構です」
ミューレさんはそう言うと、手の平をそのトレーの方に向けた。
何をしているんだろう、と思ったのも束の間、トレーの上から何かがふわりと浮かび上がった。
俺が仰天していると、トレーから浮かび上がったそれは、空中をふわふわと移動し、ミューレさんの手の上に着地した。
「こちらになります。使用するときはご自身とお相手の耳に着用してください。一応、使用人たちにも持たせますが……」
それは、一対のイヤリングだった。耳に直接引っ掛けるタイプで、白い石のような装飾が一つだけ付いている。
何の変哲もない、タネも仕掛けもない普通のイヤリングに見えた。それが今、空中を浮遊した。
「……いかがなされましたか?」
イヤリングを見つめている俺を見て、ミューレさんは不思議そうにしていた。今の現象には、微塵も疑問を抱いている様子はない。
俺の『予想』は確信に変わりつつあった。
「ミューレさん。一つお話ししておきたいことがあるのですが……」
−−−
「まあ。ご記憶を?」
俺はミューレさんに記憶を失っていることを話した。一体なぜ自分があんな傷を負っていたのか、なぜこのお屋敷にいるのか、まったく思い出せない、と。
それを聞いたミューレさんは俺が発見された時のことを教えてくれた。昨日の明け方、この屋敷の門番が、門の前で倒れている俺を見つけたらしい。だが、それを聞いてもまったくピンとこなかった。
「……それでその、なんか記憶が混乱してて、いろんなことを忘れちゃってるみたいなんです。俺の方からいくつか質問してもいいですか?」
「ええ。私に答えられることなら」
何から聞いたものか、俺は少しの間思案して、そして口を開いた。
「えっと……さっきこのイヤリングが宙を浮かんだり、あと、俺とミューレさんは話してる言語が違うのに今こうして会話が通じてるんですよね? それって……どうやってるんですか?」
俺の質問は相当予想外だったのだろう。ミューレさんは目を丸くしていた。
「ナギサ様……もしかして▫︎▫︎を忘れてしまわれたのですか?」
『忘れた』というか、俺は多分それを知らない。