第0話:ある兄妹
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下校中、突然目の前が真っ暗になった。
手持ちのモンスターが全滅したわけじゃなくて、何者かに背後から目を塞がれたのだ。
「だーれだ!」
という能天気な声が聞こえなかったら、私は悲鳴を上げていたと思う。
「ざっけんな! 離せ馬鹿」
両目を覆っていた手を振り解いて振り返ると、そこには見慣れた顔があった。
「んだよ、湊。ノリ悪いな」
へらへら笑う制服姿の男。認めたくはないが、私の兄貴の渚だった。
「外で絡むなっつってんでしょ」
「つれねーこと言うなよ。俺ら二人で一つの兄妹だろ?」
「キモい。なんでそんなテンション高いの」
渚が無駄にハイテンションで鬱陶しいのはいつものことだが、今日はいつにも増して陽気だった。
「なんでって今日から夏休みだぜ? 高くもなるだろ」
「ああ、あんたの高校は今日からだったね」
「お前のとこはいつからだっけ?」
「一週間後」
「そっか。じゃあ終わるのはそっちが遅いかもな」
私と渚は別々の高校に通っている。二人とも高一だから、高校生になって初の夏休みだ。
そう、私たちは兄妹だが、年は同じ16歳。つまり双子だ。
「今日から夏休みなら、今日は終業式だけでしょ。こんな時間まで何してたの?」
私たちは並んで歩き始めた。もう午後なのにまだ陽は高く、夏が来たことを実感する。
「ファミレスで桂吾たちと夏休みの計画立ててた。で、海に行こうって話になったんだけどお前はいつがいい?」
「行かない」
私は即答する。
「はああ!? おいおいおいマイシスター! 夏に海行かないとか正気かよ! 遊び尽くせよ! 青春だぞ!」
渚は大袈裟なリアクションをとる(ウザい)。
「焼きたくないし、人混みもヤダ。クーラーの効いた部屋で永遠にゲームしたい」
「それも最高だけどさ。夏といえばやっぱ海だろ。いーじゃん行こうぜ〜。遊ちゃんたちも呼んでさ……あ、水着着たくないのか? もしかして太っ……あああ!! 痛い痛い痛い!!」
渚は悲鳴を上げる。私が左手の親指を逆方向に曲げてやったからだ。
「ざけんな」
「肉親に加える痛みじゃねえ……!」
渚は左手を振って痛みを和らげていた。
私たちはビルの影に入った、ひんやりした空気が気持ちいい。日向に出るのが少し嫌になった。
街路樹の隣を通るとセミの声が大きくなって、通り過ぎるとまた小さくなった。
とにかく暑い。首筋に流れた汗をハンカチで拭っていると、渚がデオドラントペーパーを一枚渡してきたので、それで拭いたら幾分か爽やかになった。
公園の花壇にはひまわりが並んでいた。彼方の空にはまだ小ぶりだが入道雲が見える。水筒の冷えた麦茶がおいしい。
夏だ。これ以上ないほどに夏だった。
「しかしはえーよな。ついこないだ中学を卒業したと思ったらもう夏休みって」
不意に、渚がぽつりと呟くようにそう言った。
私はその言葉に答えない。口にヘアゴムをくわえていたからだ。肩まで伸びた髪はこの天気では暑苦しく、ポニーテールにすることにした。
「あ、そうだ。今日おふくろ遅くなるって。夕飯代もらってたんだった」
渚が思い出したように言った。私たちの両親は共働きで、父は単身赴任中で今は家を空けている。母は月に一度か二度帰りが遅くなる日があって、そんな日は私たちが自分で夕飯を作ることになっているのだが……
「まあ、ピザでいいよな」
渚は言った。私も頷く。このようにデリバリーで済ますことが多かった。
ピザを頼むときは、それぞれ食べたいもののハーフアンドハーフにする。それが私たちの慣わしだった。
その時、私は気づく。
「……え、今『おふくろ』って言った?」
「え?」
「いや今お母さんのこと『おふくろ』って言ったよね? なんで? 今までそんな呼び方したことないじゃん」
「……別にいいじゃん。流せよ」
「カッコつけたの?」
「……」
渚は向こうを向く。顔が少し赤い。
「ねえ、カッコつけたの?」
「あ! そーだ俺寄るとこあったんだった!」
「話変えるの下手くそか」
「いやいやマジで。本屋に行くんだった。つーわけで俺こっち寄ってから帰るわ」
私たちが歩いている道の少し先には脇道があった。そこを曲がると本屋に、そのまま真っ直ぐ進むと私たちの暮らすマンションに着く。
「そっち行くならコンビニでアイス買って来てくれない?」
本屋の隣には、私たちがいつも使っているコンビニがある。
「了解。いつものか?」
「うん。お金はあんた持ちで」
「正気かよ」
もちろん嘘で、代金はちゃんと払う。なぜなら渚に借りを作ると「ま、かわいい妹の頼みなら仕方ねえな〜」とか兄貴風を吹かしてきて最高にウザいからだ。同い年のくせに渚は昔から何かと『兄貴感』を出そうとしてくる。私はと言うと、渚のことを「お兄ちゃん」なんて呼んだことは一度もない。
「何買うの?」
「『いせばつ』の新刊。漫画の方な」
「なんだっけそれ」
「『異世界に転生したのはいいけどチートもハーレムもないってなんの罰ゲーム?』だよ。ストーリーは……」
「もうタイトルでほぼ言ってるじゃん」
「いいよな〜異世界。俺も異世界行ってみてーな」
「じゃあ一回死なないとね」
「ひどくない?」
渚は昔から少年漫画やファンタジーものがとにかく好きだった。そして漫画や映画に影響されてさっきみたいにカッコつけようとすることがよくある。要するに、未だに中二病が完治していないのだ。
「じゃ、また後でな」
そう言って渚は脇道へと曲がった。私は一人で家へ歩き始める。
−−−
一人になった私は、ふとさっきの渚の言葉を思い出した。
『はえーよな。ついこないだ中学を卒業したと思ったらもう夏休みって』
答えなかったが、実は私もまったく同じことを考えていた。月日が経つのは本当に早い。光陰ミサイルの如しだ。
夏休みもきっとあっという間に終わり、私たちは二年生になるんだろう。そして……
私は考える。
さっきはその場の勢いで断ってしまったが、やっぱり渚たちと海に行ってみようかな、と私は思い始めていた。三年生になれば受験勉強がある。本気で遊べるのは今年と来年ぐらいだろう。
私は考える。
毎日には満足している。特別なことはないが、友達や渚と他愛もない話をして過ごす日常は、まあ『幸福』なのだろう。だけどこの日常は永遠じゃない。
変わらないように見えて、日々は少しずつ変化している。「もう少しこのまま」という私の言葉を無視して、目まぐるしく変わっていく。
『変わって欲しくない』というセンチメンタルな願望が、私の中にはあった。もちろん叶わぬことだと分かってはいるのだけど、理解することと受け入れることは違う。
だから、昔から何一つ変わらない渚を見ていると、少しだけ(本当にほんの少しだが)安心する。
もちろんこんなこと言ったらまた調子に乗るから絶対に言わないけど……
「うわああああっ!!」
私は立ち止まって振り返る。渚の声だった。
どうしたんだろう。犬の糞でも踏んだんだろうか。それともまたふざけているのか。それにしては声が深刻なような気がした。
私は少し迷ったが脇道に渚の様子を見に行った。もしふざけていやがったら肘鉄を喰らわせてやろうと思った。
「どうし–––え?」
−−−
その光景に、私は目を疑った。
そこには、渚がいた。正確には、渚の右半身があった。渚の左半身があるはずの部分は、何もない空間だった。
「みっ、な……!」
「な、渚……?」
それはまるで、渚が何もない空中に飲み込まれているように見えた。そして今まさに、身体のもう半分も飲み込まれようとしていた。
「渚!」
何が起きているのかわからない。だけど異常な事態が起きているのは確かだった。私は思わず渚に向かって走り出した。
「来るなっ……!」
それだけ言うと、渚の頭は完全に飲み込まれた。もはや右腕しか残っていない。私はなんとか腕をつかもうと手を伸ばした。しかし、触れることもできないまま、腕も全て消えてなくなった。
あとには、完全な虚空が残った。
私は、呆然としてその場に立ち尽くす。
全身から血の気がざあっと引く感覚がした。胸の中に黒い雲が広がっていく。
「渚……! ねえ! 渚! ねえってば! ざけんなよ! 出てきてよ!」
私は叫ぶ。どこからも返事はなく、蝉の声しか聞こえない。
渚が消えた? どこへ? どうして?
辺りを見回す。どこにも渚はいない。心拍数が上がって、息が荒くなっていく。混乱する私は道の上に何かが落ちているのに気づいた。それは、渚が通っている麻桐高校の指定カバンだった。それだけが残されている。
「なに……これ……どうして……」
なにも、わからない。
「渚……」
兄を呼ぶ。返事はない。
目の前が、真っ暗になった。
−−−
その日、あいつは家に帰って来なかった。次の日も、その次の日も。
警察が家に来た。
お父さんが帰ってきた。
だけど、あいつは帰って来なかった。
その日、私は渚を見失った。
物語が始まります。
まあ、ぶっちゃけこの話読まなくてもいいんですけどね。
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