[一 ゆり]
「佐伯さん、僕と、付き合って欲しい」
ゆりは、自分の耳を疑った。
「はい?」
「佐伯さん、僕と、付き合って欲しい」
「あの、どちらへでしょうか?」
「違う。そうじゃない。交際をしよう、と言っているんだ」
こうさい、とは、なんだろう。自分に縁のある言葉だとは、ゆりには思えなかった。高裁。光彩。公祭。高菜。子産祭。交差胃。
ゆりは、目を瞬かせ、首を傾げた。
「男女交際だ、佐伯さん。男女が交際することだよ」
交際、らしい。しかし、目の前の男性と交際する理由が思い浮かばなかった。
「なぜですか?」
「僕が君を好きだからさ。気持ちを通わせたいんだ」
「それは、必要なことなのでしょうか?」
「必要かどうかじゃない。そうしたいんだ」
どうしよう。
ゆりには興味がない。突然のことすぎて、ていよく断る言葉が思いつかなかった。
目の前の男性は、一応顔見知りだ。友達が所属する部活の先輩なのだ。友達と一緒の際に、少し会話をしたことがある。直接の交友関係はない。
そもそも、なぜ、ここに先輩がいるのだろう。友達と待ち合わせていたはずだ。しかし、待ち合わせ時間にやってきたのは、この先輩だった。見渡す限り、友達の姿はない。
考えても仕方がないので、素直な気持ちを口にするしかない。
「興味がありません」
目を合わせて言葉を返したところ、大きなショックを受けている様子だった。
「お付き合いをする理由もありません」
「最初は、理由も興味も必要ない。試してみなければわからない。友人じゃない特別な関係であると思えば、それは嬉しい。触れ合うことだってできる。喜びにもなる。試すことでそれらが実感できる」
「それは、あたしの望むところではありません」
先輩の顔がやや引きつっていた。
こういうことは初めてではないが、慣れているわけでもない。居心地が悪い。
どんな内容であれ、応じる気はなかったので、早々に諦めてほしい。そのつもりで、明確な拒絶の意思を示した。しかし、表現を変えつつ食い下がってくる。一歩近づかれれば、一歩下がった。そうやって距離を保つ。
顔には出さないように努めたが、やり取りが億劫になってきた。それでも、かけられる言葉の一つ一つに反応した。真っ直ぐな気持ちは感じるのだ。
「はいはい、先輩、もういいでしょ。ゆり、いこっ」
友人の藤枝美香が、突然横から現れ、ゆりの背中を押した。
「う、うん」
先輩を置いて、美香と少し歩いた。先輩と距離が開いたと思えたところで、美香へ咎める視線を送った。気まずそうに頬を指先で掻く美香。
「それにしても、断っちゃったかあ」
「知ってたの?」
「あの人、部活の先輩じゃん? せがまれると断れなくってさー」
「やめてよね、もう」
「でもほら、うちら、もう高校生じゃん。機会があるなら、男を知っておいてもいいかな、って思ってさ」
「美香と一緒にいる時に、少し喋ったことがあるだけの人だよ。無理だよ」
「顔はかっこいいじゃん」
格好良い、というのがどういう顔か、ゆりには判断がつかない。美香にとってはそうなのだろう。その価値観の否定はしなかった。
「それでも、嫌なの」
「今回は許してよ。ほんとにしつこくって。わたしを助けたと思ってよ」
高く手を重ね合わせる美香。ゆりは一つ息を吐いた。
「じゃあ、しょうがないね」
「ありがと」
それからは二人で映画を鑑賞し、洋菓子店でケーキを食べながらお喋りをした。休日は、ちょっとした夢の時間だ。
楽しい時間を過ごしたが、暗くなる少し前に美香と別れ、買い物をして帰った。
身体を洗ったあとは、台所で夕食を作った。だまこ鍋だ。何度か作ったことのある料理なので、特に難しいものでもない。味見を一度すると、いつも通りの味だった。
料理が出来上がると時計を見た。そろそろ母が帰って来ても良さそうな時間だ。
居間でテレビの電源を入れたが、放送画面が映らない。壊れてしまったようだ。仕方なくテレビを諦め、昼間に観た映画のパンフレットを広げた。
今日観た映画は、恋愛映画のようだった。時代劇風のもので、嫁を見つけるために旅へ出た青年が奮闘する物語だった。美香が観たがった作品である。
玄関から物音がした。母のさくらが帰ってきたのだろう。玄関に向かう。
「おかえりなさい、お母さん」
「うーん。良い匂いね」
「うん、だまこ鍋にしたよ」
「どれくらい腕を上げたか、あとで評価してあげるわ」
「やだ、こわい」
「社会は評価の連続よ」
もっと夢のあることを、言って欲しい。社会生活のことなど、まだ考えたくもない。
台所に戻ると、鍋は温め直したり、皿を出したりし、食事の準備を整えた。
「はあ……。良いお湯だった」
「お酒は飲む?」
「ううん、今夜はいいわ」
食卓で向かい合って座った。
「よし、食べよう。すごい量ね」
「うん、ちょっと作りすぎちゃった」
「こんなに食べたら、お腹が六段になるわよ」
「お母さんなら大丈夫」
「あのね、お母さんだから大変なのよ。歳のせいか、食べるとすぐ肉になるのよ」
そう言って腹の肉をつまむさくら。
「あれ、ちょっと太った?」
「あんたが九割、食え」
「無理だよー」
それは、さすがに食べきれない。二人で食べて、十分以上の量があるのだ。
「そうだ、ゆり。今日は、話があるの」
「なあに?」
「お母さん、再婚しようと思ってて」
「ふうん」
どういうことになるのだろう。苗字が変わるのだろうか。
「言ってる意味、わかってる?」
「ううん」
「ゆりにとっては、新しいお父さんが出来るってことよ」
「そ、そうなんだ」
「だからね、その人、阿東さんって言う人なのだけど、会って欲しいのよ」
「お母さんは、その人のことを好きなの?」
昼間の先輩の顔が思い浮かんだ。異性を好きになる、といった感情は良くわからない。それが新しい父であっても、同じだろうと思えた。強いて好きな異性をあげるとしたら、亡くなった父だけだ。
「そりゃ、再婚を考えているくらいだからね」
「じゃあ、会ってもいいよ。会わないで決めてくれてもいいけど」
「それは駄目よ。ゆりにとっても、大事なことなんだから。ゆりが納得してくれないなら、お母さんの気持ちがどうであろうと、再婚の話はなかったことにするわ」
そう言われてしまうと、嫌だ、とは言い辛い。
昼間の先輩からも、こういう言い方をされていたら、内心渋々でも、交際を決めたかもしれない。それは良い未来とは想えず、少し身体が震えた。
「わかった。会うよ」
「ありがと。今度、家に連れてくるから。それとも最初は外がいい?」
「ううん、家でいいよ。美味しい料理、作るね」
母の手がのびてきた。頭をワシャワシャと撫でられ、嬉しさが募った。
「よし、いい子だ」
「エックスデーが決まったら教えて?」
「何よ、エックスデーって。何か事件でも起きそうじゃない」
「だって、お母さんがフラれる可能性もあるわけでしょ?」
「こやつ、全然良い子じゃないな」
母と二人、笑いあった。
父が亡くなったあとも、この母がいたから、なんとかやってこられた。変わらぬ暮らしで、ゆりが明るくいられるのは、さくらのおかげだ。
本音を言うと、新しい父親は、欲しいとは思っていなかった。実の父親が心にいる。その存在は今も大きく、別の父と言われても、受け入れ難い。しかし、実の父を気にする素振りは、表に出さないようにした。そういうゆりの気持ちを、さくらは敏感に察知する。再婚するのであれば、これからも秘するべきと思えた。
母が望むのであれば、その願いは叶えたい。母の幸せが、ゆりの幸せでもある。
「うまくいくと、いいね」
ゆりは、精一杯の笑顔で、本心を伝えた。さくらが静かに頷いた。