[四 ゆり]
このまま、好きでもない義父に汚されるのか。こんな人は、ただの他人ではないか。何も言えず、何も出来ず。いいようにされるのか。こんなにも自分は無力なのか。涙が止まらなかった。内心で嘆き続けた。
助けて、お父さん。
助けて、お母さん。
祈った。
助けを願った。
「ゆり、あとは自分でやれよ」
ふいに、父の声が聞こえた。お父さんが助けに来た。歓喜の想いが一瞬で心に満ちた。でも、いない。確かに聞こえたのに。
自分で。そう言われた。やる。やるよ。だから。
しかし、自分に何ができるのか。何もできない。いや、動きそうだ。手足が動く。
縛られていた手足の拘束がゆるい。引くと切れていた。
由紀夫は、ゆりの身体に夢中になっていた。逃れなければ。今なら。
しかし、非力な自分の力で、男を押し退けられるだろうか。
ふと、視界に影を感じた。視線を向ける。リュックだ。なぜ近くに。
思い立ってリュックを手に取った。渾身の力を込めて、由紀夫の側頭部へ振るった。由紀夫が痛がり、身体が離れた。
リュックを手にしたまま飛び起きた。視界がグラつく。頭痛がひどい。それでもなんとか扉を開け、通路に出た。手すりを伝い、階段を滑り落ちるようにして降りた。気配が追ってきている。
「お母さん、お母さんっ」
居間へ。寝室へ。飛び込んだ。丁度目を覚ました母に抱きつく。
「どうしたの、ゆり?」
「お母さん、あの人が」
「ちょっと落ち着きなさい。ん、何なの、この縄は?」
手足に縄は結ばれていた。その先は、刃物で斬られたかのように途切れている。
「あの人に、やられた」
由紀夫の駆け込んでくる気配が、遅れてやってきた。
「どういうこと?」
「どけっ」
立ち塞がった母が殴られた。その背中を支えた。
駄目だ、外に助けを呼ぶべきだ。
手近にあった目覚まし時計を手に取った。力を込めて窓へ投げる。ガラスの割れる音が響いた。それから数秒経つと、全ての窓ガラスが、大きな音をたてながら順次割れた。次には、庭に転がる目覚まし時計が、ベル音を発し始めた。テレビには電源が入り、電話も鳴り始めた。
「誰か、助けて。誰かっ」
不思議さを考えている暇はない。懸命に叫び、助けを呼んだ。時間がわからないが、外は暗い。隣人の目覚めに期待した。
「あなた、何をやっているか、わかっているのでしょうね」
「俺は夫で父親だ」
「あなたはお父さんじゃないっ」
反射的に叫んでいた。
「夫でもなくなるわ」
なぜか玄関の開く音が聞こえた。外まで行けば。
さらにガラスの割れる音が、外から聞こえた。人の声が聞こえ始める。
玄関へ向かう道は、由紀夫に塞がれていた。さくらと二人、由紀夫から距離をとるしかなかった。
詰め寄られる。しかし、由紀夫に不幸が訪れた。地が揺れたかと思うと、タンスの上の荷物が、由紀夫の足に落ちてきたのだ。
由紀夫の悲鳴。
由紀夫が苦しんでいる隙に、横をさくらと駆け抜けた。玄関を飛び出る。人は何人か出てきていた。
「お願いします。助けてっ」
初老の男性に、さくらが助けを乞う。すぐうしろを由紀夫が追ってきた。
「あんた、旦那さんだろう? 何をやっているんだ」
「うるさい、邪魔をするな」
続けて二名の警官がやってきた。仲裁に入ろうとし、由紀夫に殴られた。すると、警官が本気になったのか、由紀夫はその場で即座に取り押さえられた。
ゆりは、さくらと腰を落とした。終わったのか。助かったのか。
「ゆり。大丈夫?」
「うん。怖かったよ」
気丈に振る舞っていたつもりだが、気が緩むと涙がとめどなく溢れた。さくらに頭を預ける。さくらの温もりが、安心を与えてくれる。
「ごめんね。お母さんが悪かったね」
どうしてこうなったのか。どうして奇跡が起きたのか。諦めていた。もうダメだ。どうにもならない。声も出せない。泣くしかできない。そういう状況だった。
だけど、父の声が聞こえた。それが、確かな心の拠り所となり、自分自身に奮起を促すことができた。
ゆりは、リュックを静かに抱きしめた。
お父さん、ありがとう。感謝の心を込めた。