[ニ ゆり]
身体に力が入らなかった。それでも起き上がり、顔を洗おうとすると、倒れてしまった。救急車で病院に運ばれたようで、気がつくと病室で点滴を受けていた。断片的に記憶がある。
「あなたは、娘さんにどんな生活を送らせているんですか」
近くで誰かが声を荒げている。
「本当に申し訳ございません。よくやってくれるもので、つい」
「つい、で済ませられる程度ではありません。こんなになるまで放っておくなんて。虐待と変わりませんよ」
傍らでは、母が医者に怒られていた。何度も頭を下げている。申し訳なさそうな様子を見せているが、そう振る舞っているだけだろうと思えた。
何にせよ、母に嫌な思いをさせたくはない。
「先生」
「おお、目覚めたかね」
「母は、悪くありません」
普通に喋ったつもりだったが、自分の声は、消えてしまいそうな小声だった。
「うるさくして申し訳ないね。お母様は、別室でお話をしましょう」
「あっ」
ゆりの言葉は、聞いてはもらえないようだった。しかし、悪戯な笑顔を、さくらがこっそり向けてくれた。さくらも聞いてはいないようだ。
静かになると、天井を見上げた。今までどれだけの患者が、この天井を見上げたのだろう。今は自分もその一人だ。
病気なのだろうか。
「あんた、過労なんだって? その歳でまあ」
声のした方を見ると、老婦人が同じように点滴を受けていた。
「過労なんですか?」
「先生が、そう仰ってたよ」
過労。つまり、働き過ぎ、ということだろう。
「働いては、いないのですが」
「家事や勉強とか、頑張りすぎなんじゃないのかい?」
「そんなことは、ありません」
確かに家事はしている。勉強もしている。しかしそれを、負担と感じたことはない。
「ちゃんと休まなきゃね」
どうなのだろう、と自分の生活を振り返ってみた。やはり、釈然としない。
「あの、お婆ちゃんはどうして?」
「あたし? あたしゃ、ただの貧血だよ。あんたより、よっぽど元気だよ」
本当に元気そうだ。
しばらく話していると、さくらが戻ってきた。さくらの手が顔に触れてくる。
「どう?」
「なんともないつもりだよ」
「点滴が終わったら帰ってもいいって。入院しての検査も勧められているけど」
さくらは、選択肢を狭めるような物言いをしばしばする。ゆりの気持ちを汲んでいるのだ。この物言いなら、検査をするべきと言われているのだろう。しかしさくらは、不要だと考えている。
「どうせ寝ているなら、お家で寝たいよ」
「じゃあ、帰ろう」
点滴が終わると、さくらと共に病院を出た。出際も、病院の先生が、何やらさくらに言い募っていた。はいはい、と明らかに聞き流している。
外では義父が待っていた。近くに車がある。
「大丈夫かい、ゆり」
「はい、大丈夫です、お義父さん。ご心配をおかけしました」
「今日はゆっくり休もう」
「はい」
義父である由紀夫の運転する乗用車に乗り、三人で帰宅した。
新しい父は優しい。きっと、さくらの良い夫だ。良い父かどうかは、判断ができない。どちらかというと、苦手だった。なぜか。考えても判然とはしなかった。
帰宅すると、横になった。半ば無理やり、義父に寝かされた格好だ。顔を洗いたい、と訴えると、濡らしたタオルを持ってきてくれた。
やはり、病院で寝るより、家で横になっている方が落ち着く。見たことのある天井。慣れた枕の感触。タオルケットの裏地。
眠くはなかったので、目を閉じるだけにした。義父が何度かやってきたが、目を閉じたままやり過ごす。落ち着かないのは、義父の様子見くらいだった。
母の気配の時だけは、扉が開かれる前から笑顔で迎えた。
「苦手?」
「何が?」
「お義父さんよ。避けてるんじゃないの?」
おかしい。そういう素振りを、さくらに見せたつもりはない。
さくらが布団の傍に座った。髪の毛が撫でられる。嬉しい。
「なんで分かったの?」
「あの人が、一階に戻ってくるたびに、寝てたって言うからよ。でも、あなた、寝ていた気配ないじゃない」
「お母さん、すごい」
見られていなくても見られている。もっと気をつけなければならない。
話題を変えよう。
「お母さん、あたし、病気なのかなあ?」
「そんなわけないでしょう」
「そうだよね。でも、なんだか、力が入らないの」
「気疲れでもしたんじゃないの?」
「えっ」
「だって、同居するようになったあたりからでしょ。ゆりが元気をなくしてきたのは」
「そうかな?」
「そうよ。ゆっくり慣れてくれればいいのよ。お母さんは、付き合いがそれなりに長いけれど、ゆりにとっては、馴染みのない男性が、突然同居するのと変わらないのだから」
「そう、かもしれないけれど」
「何にせよ、もう少し様子を見ましょ。本当はもっと早く、ゆりが気持ちの整理を出来ていないことに、気がつくべきだったけれど」
確かに、再婚に乗り気な様子を、ゆりは見せた。さくらがゆりの心中を推し量っているのが、よくわかったからだ。自分が足かせになってはいけない。そう思った。
しかし、一緒に暮らし始めてみると、気遣うことが色々増える。お父さん以外の人がいる。男性がいる。見られている。言われてみれば、気疲れしたかもしれない。
「様子見ても駄目だったら、どうにかするわ」
「どうにかって?」
「離婚とか?」
「そんな簡単に決められるの?」
「まっかせなさい」
良かった。母は、ゆりの味方だ。そう思えた。でも、重荷にはなりたくない。
ゆりの額を軽くひと叩きし、さくらが出て行こうとする。
「あ、お母さん」
「ん?」
「友達を呼んでも良い?」
「いいわよ。美香ちゃん?」
「うん」
「じゃあ、電話しちゃいなさい」
「ありがと」
さくらから携帯電話を受け取り、友人の藤枝美香に電話をかけた。泊まりに来てくれないか、頼んでみるつもりだった。
美香が来てくれれば、少しは気が紛れる。呼び出し音を聴きながら、どうお願いしようか考えた。